「水の記憶」事件
ホメオパシーも参照。
ことの発端
1988年に国際的な学術誌ネイチャーにフランスINSERM (Institut national de la sante et de la recherche medicale)のジャック・ベンベニスト(Jacques Benveniste)博士のグループによる「極度に希釈した抗血清中の抗IgE抗体によって引き起こされるヒトの好塩基球の脱顆粒化」というタイトルの論文(文献1)が発表された。
このタイトルを見ても専門家以外にはなんのことだか、さっぱりわからない…
ところが、この論文の終わりには、編集部による但書きがついており、それによると、この論文の結論は、その中に1分子も抗体が含まれていないほど薄く希釈した後であっても、水溶液は抗原・抗体反応を引き起こす能力を保持し続けるとのことだった。つまり、この論文の骨子は「水は以前そこに溶けていたものを覚えている」というものだったのだ。これがベンベニスト博士(本によってはバンヴェニストとも記述)による「水の記憶」事件の発端だった!
文献12によると当時ネイチャー誌の編集長だったジョン・マドックス氏はベンベニスト博士の主張が間違っていると認識していたにもかかわらず、公開科学論争のきっかけになればという目的で信頼のおけない論文を掲載してしまったようだ。この論文に対する科学界の反応は「物議をかもす」というレベルのものではなく、「ネイチャー誌は掲載を断固拒否すべきだった」という批判が殺到した。さらに悪いことに、マドックス氏の思惑どおり、科学的な反証が得られたにもかかわらず、ベンベニスト博士の論文は、無限希釈した水溶液にも薬効があるとする民間療法「ホメオパシー」の科学的根拠として引用されるようになってしまったのである。
この論文が受理されるまで、イタリア、イスラエル、カナダの研究所で追試が行われ、2年かかってやっと出版された。さらにこの論文に付随した編集部の但書きには「この実験を見直すためにネイチャー誌は独自の調査を手配した」とも書いてあった。そして、ネイチャー誌は3名の調査委員をベンベニスト氏のもとに送り込んだ。その中には、自称超能力者のインチキ行為を暴露することで有名なマジシャンのジェイムズ・ランディ (James Randi)も含まれていた。これはまるで「お前の実験には何かトリックがあるんだろう」と言われているようなもので、科学者にとってはかなり屈辱的なことだ。ベンベニスト博士も、当然のことながら、相当お怒りになられたようだ。
その調査チームの調査結果が文献2である。この報告によると、誤差等から統計的に予想される実験結果よりも「よい結果」が得られていることから、観察者によるバイアスがかかっているのではないか?という疑問が浮上し、結論として「過去に溶け込んでいた物質の記憶が水に刷り込まれるという仮説は、空想的であると同時にまったく無用のものである」ということになった。
さらにロンドン大学ユニバーシティカレッジのグループによる追試も行われ、その論文が文献3である。そのタイトルを和訳すると、「ヒトの好塩基球の脱顆粒化は、極度に希釈した抗血清中の抗IgE抗体によって引き起こされない」というベンベニスト先生の主張をまっこうから否定してしまうもので、その結論は「Our results contain a source of variation for which we cannot account, but no aspect of the data is consistent with the previously published claims 」というものだった。要するに、よくわからない点もあるにはあるが、ベンベニスト博士の実験には再現性がないことがわかったということ。
こうしてベンベニスト博士の論文は科学的には否定されてしまったわけだが、ベンベニスト博士はなんと1991年に始まったIg Nobel賞の第一回化学賞を受賞することになったのである!その受賞理由は「水には知性があり、水は出来事を長く記憶していることを実証したこと」であった。
注意! 日本ではバウリンガルやカラオケがIg Nobel賞を受賞しているので、これがとても権威のある賞だと勘違いしている人が多いが、基本的に「笑える研究」ならなんでも受賞することができる。つまり科学的根拠は必要ではなく、「トンデモ研究」であっても受賞できるのだ。
2度目のIg Nobel賞受賞とデジタル生物学
しかし、ベンベニスト博士はこの程度のことでへこたれることもなく、独自の研究を続け、2度目のIg Nobel賞を1998年に受賞することになった。(Ig Nobel化学賞)その受賞理由は「水には記憶力があるだけでなく、記憶された情報が電話線やインターネットを通じて伝達できることを実証したこと」であった。
受賞のきっかけとなったのは文献7である。タイトルを日本語訳すると「デジタル化された抗原信号の電話回線による大西洋横断転送」となる。これは論文ではなくて、学会の要旨らしいので入手することはできなかった。そこで、この要旨の内容を文献5から引用すると次のようになる。
ビーカーの水から記憶情報を回収し、電話線を通じて電気的に送信した。受信側では、記憶情報はスピーカーを通じてビーカーの水に20分で保存された。受信側のビーカーの水を死んだモルモットの心臓に還流したところ、モルモットの心臓は送信側のビーカーの水が記憶していた情報を正確に反映する反応を示した。
これまた、ややこしいことをやっているようで、これを読んでもなんだかわからない…
文献6によると、これは摘出したモルモットの心臓を利用したランゲンドルフ装置による実験である。モルモットはあらかじめ特定の物質に対してアレルギー体質にされており、その物質を含む溶液が注入されると、心臓はアレルギーショックを起こし、冠状動脈の直径が変化する。この変化を間接的に心臓の心拍運動による生理食塩水の循環排出量を測定して求める実験らしい。
ベンベニスト博士の「デジタル生物学」の理論によると、水は以前その中に溶けていた物質の情報を電磁波として放出しているので、それを受信し増幅して電気的なデジタル信号に変換できるのだそうだ。しかし、ベンベニスト博士の実験方法の検出精度に問題はなかったのだろうか?文献6によると「コントロール溶液」として使用していたただの生理食塩水でもモルモットの心臓はアレルギー反応を起こすことがあったらしい。普通だとこの実験の検出精度に問題があると解釈するところだが、ベンベニスト博士は生理食塩水が「電磁的に」エンドトキシンにより汚染されていたと考えたようだ。
ベンベニスト博士はこの当時、薬剤の情報を水に記録させ、これをデジタル化して電話やインターネットで送信することができるようになれば、製薬業界に革命をもたらすとお考えだったようだ。結局この夢はまだ実現していないが、ベンベニスト博士は史上初めてIg Nobel賞を2度受賞する人物となったのである。
デジタル生物学の反証実験
しかし、この話はここでは終わらない。まだ続きがあるのだ。驚くべきことにデジタル生物学の反証実験が行われ、論文にもなっている。それが文献8「特定の生体信号はデジタル化できるか?」だ。その結論は「我々のチームはデジタル信号からなんら再現性のある効果を見つけることはできなかった」というものだった。この実験はアメリカ合衆国国防省のDARPA(国防先端研究計画機関)の依頼で行われ、ベンベニスト博士のグループも協力している。
ベンベニスト博士の最初の論文へのネイチャー誌の対応は特例だらけで問題があり、その後に続く関係者間の感情的な対立の火種となってしまった。その反省を踏まえ、社会コミュニケーションと紛争マネージメントの専門家を組み入れて実験が計画された。つまり、肯定派も否定派も、誰もができる限り納得できるような実験がデザインされたわけだ。実験をできる限り自動化するため、実験用ロボットがベンベニスト博士のチームによりセットアップされた。さらに前期パイロット段階、パイロット段階、試験段階の3つに実験は分かれており、ベンベニストのチームは最初の2段階には参加したが、最後の試験段階には参加しなかった。
実験に用いられたのは、パソコンのハードディスクに記録された血栓抑制剤のデジタル信号で、サンプルの計量や信号の水への照射等はコンピュータープログラムで動くロボットが行った。人間がかかわったのはサンプルの準備とデータの分析のみである。パイロット段階までの実験で、ベンベニストチームのある特定の人物が実験にかかわっている時のみに肯定的な結果が出るということがわかった。しかし、最終的な試験段階ではデジタル信号からはなんの効果も得られないことが判明した。
当然のことだが、この実験結果にベンベニスト博士は満足しなかった。ベンベニスト博士は、実験を行う人物の発するなんらかの影響によりデジタル信号が撹乱され、実験がうまくいかないことがあると考えた。リン・マクタガート著の「フィールド 響きあう生命・意識・宇宙」(文献13)にも、ある特定の女性が実験室にいる日に限って、実験がうまくいかないということが述べてある。その女性の科学的手技に非の打ち所はなく、実験プロトコルにも忠実に従っていた。それでも彼女の場合は実験が一度もうまくいかなかった。
科学の実験は再現性が重視される。つまり、誰がやっても基本的に同じ結果が得られることが求められる。再現性がないということは、実験結果そのものに問題があると通常は考えられる。しかし、ベンベニスト博士はそうは考えず、彼女の存在そのものに関するなにかが、陽性の結果が出るのを阻んでいると考えた。彼女は、細胞のコミュニケーションに干渉し、それを阻害するなんらかの波動を放出しているに違いないとしている。しかし、このような主張を裏付けるような証拠はないようだ。
なお、ベンベニスト博士は2004年10月3日パリにて、心臓手術後にお亡くなりになられている。享年69歳だった。ご冥福をお祈りします。
- 「'Memory of water' biologist dies after heart surgery」 Philip Ball, Nature 431, 729 (14 October 2004)
水の記憶力
普通、液体に情報を記憶させるのは非常に難しい。人間がこれまでに利用してきた記録媒体や記録素子はどれも固体でできている(たとえば、CD、DVD、ハードディスク、カセットテープ、新聞や本、石板…)ということもこのことを裏付けている。
では、実際に水はどの程度の記憶力を持つのだろうか?実際に科学的手法による研究報告が存在する。たとえば、文献9「液体H2Oの水素結合ネットワークにおける極めて速い記憶の喪失およびエネルギー再分配」だ。この研究では赤外線パルスレーザーを用いて、液体H2OのOH伸縮振動の赤外吸収バンドにホログラムを書き込み、それがどのくらいの時間で消えるか?ということを測定している。(IRフォトンエコーの測定) その結論は「液体水が構造中の持続的相関関係の記憶を50fs以内に本質的に失うことを浮き彫りにしている」とのこと。ここで「fs」とはフェムト秒のことで、1フェムト秒は10の−15乗秒のこと。つまりめちゃくちゃ短い時間のことだ。
なぜ科学者がこんな研究をするのかというと、水中の分子運動の「マルコフ過程」や「エルゴード仮説」を調べるためだ。
マルコフ過程とは確率過程の1つで、簡単にいうと「未来が現在のみに依存し、過去には依存しない過程」のこと。つまり、この過程では常に「過去の運動に関する記憶の喪失」が起こる。水分子はブラウン運動(熱揺らぎ)により他の分子とランダムにぶつかり合い、動き回っている。何回か周りの分子とぶつかり合うと、ちょっと前にどこにいて、どのような速度でどの方向に動いていたかわからなくなる。水の場合、このような記憶喪失は非常に速いタイムスケールで起こる。
「エルゴード仮説」とは、統計的な事象について、測定した物理量の長時間平均と集団(アンサンブル)平均が等しくなることをいう。水分子の状態がマルコフ過程で揺らぎ、可能な状態すべてを経験しているとすると、1個の水分子の時間平均は多数の水分子の集団平均に等しくなるはずである。水などの液体はエルゴード性が高いことが知られており、このことも水は記録媒体には向かないことを示している。
何らかの情報を水に記録しようとした場合、個々の水分子に何かを記録することはできない。なぜなら、同じ状態にある水分子同士は量子力学的要請により全く同じ性質を持ち、区別がつかないからだ。文献9では水のOH伸縮振動の不均一性を利用していたが、もっと大きな水分子の集団(たとえば、クラスター)を利用することも考えられる。
水分子同士は水素結合により弱くつながり合ってネットワークを形成している。(クラスターを形成しているという主張もある) このネットワークの中に何か情報を書き込むことができるかも知れない。(たとえばクラスターのサイズを変えることによって) しかし、このネットワークもブラウン運動により常に生成消滅しており、その構造が変化してしまうのにかかる時間は数ピコ秒程度だろうということがわかっている。1ピコ秒は10の−12乗秒のことである。(文献11)
「水は変わる」について
『「水は変わる」のお茶大提訴問題』に登場する吉岡英介氏は「水は変わる」のサイト内で、
と主張し、「水に磁場をかけてもその影響が後に残ることはない」などということは、証明も実験もないと何度か強調して述べている。(文献14)我々の観察では、水は磁場の影響を受けて変化し、その変化は持続する。それは、水が何かを記憶したということである。
しかし、実際には核磁気共鳴(NMR)、誘電緩和、光Kerr効果(OKE)などの分光学的方法で、水に対する磁場や電場の影響は詳細に調べられている。その結果、吉岡氏が主張するような長時間安定な「非平衡状態」が水中に存在するという証拠はまだ見つかっていない。吉岡氏はこうした事実を知らないようだ。
参考文献
- 「Human basophil degranulation triggered by very dilute antiserum against IgE」 E. Davenas, F. Beauvais, J. Amara, M. Oberbaum, B. Robinzon, A. Miadonnai, A. Tedeschi, B. Pomeranz, P. Fortner, P. Belon, J. Sainte-Laudy, B. Poitevin & J. Benveniste, Nature 333, 816 - 818, 30 June, 1988.
- 「"High-dilution" experiments a delusion. The now celebrated report by Dr J. Benveniste and colleagues elsewhere is found, by a visiting Nature team, to be an insubstantial basis for the claims made for them」 JOHN MADDOX, JAMES RANDI & WALTER W. STEWART, Nature Vol. 334, 28 July, 287-291, 1988.
- 「Human basophil degranulation is not triggered by very dilute antiserum against human IgE」 S. J. Hirst, N. A. Hayes, J. Burridge, F. L. Pearce & J. C. Foreman, Nature 366, 525 - 527 (09 December 1993)
- 「きわどい科学」 マイケル・W・フリードランダー著 白揚社
- 「イグ・ノーベル賞」 マーク・エイブラハムズ著 阪急コミュニケーションズ
- 『真実の告白 水の記憶事件 ホメオパシーの科学的根拠「水の記憶」に関する真実のすべて』 ジャック・ベンベニスト著、ホメオパシー出版
- 「Transatlantic Transfer of Digitized Antigen Signal by Telephone Link」 J. Benveniste, P. Jurgens, W. Hsueh and J. Aissa, Journal of Allergy and Clinical Immunology - Program and abstracts of papers to be presented during scientific sessions AAAAI/AAI.CIS Joint Meeting February 21-26, 1997
- 「Can specific biological signals be digitized?」 Wayne B. Jonas, John A. Ives, Florence Rollwagen, Daniel W. Denman, Kenneth Hintz, Mitchell Hammer, Cindy Crawford and Kurt Henry, The FASEB Journal. 2006;20:23-28.
- 「Ultrafast memory loss and energy redistribution in the hydrogen bond network of liquid H2O」(液体H2Oの水素結合ネットワークにおける極めて速い記憶の喪失およびエネルギー再分配) M. L. Cowan, B. D. Bruner, N. Huse, J. R. Dwyer, B. Chugh, E. T. J. Nibbering, T. Elsaesserand R. J. D. Miller, Nature 434, 199-202 (10 March 2005)
- ベンベニスト博士らのベンチャー企業「DigiBio」のウェブサイト
- 「水にまつわるエトセトラ −レーザー分子分光学からの知見−」 大阪大学 大学院基礎工学研究科 長澤 裕
- 「わたしたちはなぜ科学にだまされるのか―インチキ!ブードゥー・サイエンス」 ロバート・L. パーク (著)、栗木 さつき (翻訳)、主婦の友社
- 「フィールド 響きあう生命・意識・宇宙」 リン マクタガート (著)、野中 浩一 (翻訳) 、河出書房新社
- 「磁気活水の科学 3 区別のつかない人々」 2008.06.14
- 「STS学者 on 「水の記憶事件」」 忘却からの帰還, 2012年03月18日