クライオニクス(人体凍結保存)
この文章は、本来ASIOSの新刊「謎解き超科学」(彩図社 2013/10/24)に掲載される予定のものだったが、私(ながぴい)がASIOSをやめてしまったので、ぽしゃったものである。そのまま消えゆくのももったいないので、ここに掲載することにした。よって、この項目はASIOSの本の形式と同様、【伝説】と【真相】から成っている。
なお、コールドスリープとクライオニクスはまったく別のものである。コールドスリープとは、SF等に登場する架空のテクノロジーであり、人体を低温状態に保ち、長時間の昏睡状態で老化を防ぐ装置や技術のことである。つまり、コールドスリープされた人物は死んでいないので、その人のかかった病気の治療法が見つかった後で、蘇生させれば、病気を直せる可能性もある。ただし、これはまだ架空の技術である。
これに対し、クライオニクスはただ単に死体を超低温で長時間冷凍保存するというだけの技術なので、その死体が将来甦るという保証はどこにもない。
【伝説】
これだけ医学が発展した21世紀の現在でも直せない病気や怪我が存在する。不治の病にかかってしまった人は治療法が開発されるまで待つしか手立てがないが、そんなに長く待つことはできない場合も多い。いつ開発されるかわからない治療法を待つあいだ、病気の進行を抑えて延命できるいい方法はないのだろうか?
たとえば、「2001年宇宙の旅」や「エイリアン」といったSF映画では、長期間の宇宙旅行で「コールド・スリープ」という人体保存方法が登場する。これは人体を低温状態に保ち新陳代謝を極端に低下させ、生命維持にかかるコストを低減したり老化を防止する架空の手法である。
手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」では、治療法が開発されるまで難病のカップルがいっしょにコールド・スリープする話が登場する。もちろん現代の科学ではコールド・スリープはまだ不可能だが、死体を極低温で長期間凍結保存することは可能だ。科学が発展した未来においては死体を蘇らせることも不可能ではないかもしれない。病気や事故で死んでしまった人の身体(特に脳)を長期間凍結保存し、未来で再生しようというテクノロジーがクライオニクス(cryonics)なのである。
クライオニクスにおいては、温度が低ければ低いほど死体の長期保存状態は良好なものとなる。以前はドライアイスが使用されており、これで到達できる温度は−79℃程度だったが、現在使用されている液体窒素では-196℃という極低温にまで達することができる。超低温保存しておいた死体を復活させる方法としては、ナノテクノロジー(ナノテク)が有力視されている。
ナノテクとは原子や分子を材料に極微の機械や電子回路を組み立てる技術であり、その究極の目的はバクテリアと同じくらい小さなロボット(ナノボット)を製作することである。 医療にナノボットを利用できれば、血管などを通じて体内のあらゆるところに到達し、細胞ひとつひとつに対して分子レベルで治療が可能となる。
ナノテクの提唱者であるK. エリック・ドレクスラー博士は、破壊された生体組織の再生、有害なウィルスや癌細胞の破壊、体内にたまった有害物質の除去等を医療用ナノボットで行うことができるとしている。さらに、一般には「死亡」と呼ばれる機能停止状態で保存されている人体の修復と復活も可能だとしている。
ドレクスラー博士は「1960年代の粗雑な凍結技術によって保存されている人体でも、その対象となりうる」と述べている。水は凍る際に体積が膨張するので、人体を凍結させると氷の成長によって細胞が傷ついてしまう。しかし、凍結技術の進歩によって細胞の損傷を少なくすることができるし、ナノテクを利用すれば、そうした損傷もすべて修復可能になる。
人間の身体は、そのDNAを取り出し、クローン技術を使えば再生可能だ。しかし、肉体をクローンしても本人の意識や記憶は再生できないので、本人の脳からこれらの情報を取り出しコピーしなくてはならない。つまり、脳だけ保存しておけば身体なんかなくたって復活は可能だということだ。生身の身体ではなくコンピューターのメモリのようなものに意識をコピーできれば、サイボーグのような人工の身体やバーチャル・リアリティ(仮想現実空間)における復活も可能だろう。
クライオニクスはもはや夢物語ではなく、すでに海外では人体凍結保存を実際に行っている団体が複数存在する。
たとえば、アルコー延命財団(Alcor Life Extension Foundation)、クライオニクス研究所(Cryonics Institute)、Cryonics Europe、KrioRus等があり、凍結保存の費用も決して手の届かない値段ではない。アルコー延命財団では、アメリカ在住の人の場合その最低費用は、全身凍結で20万ドル、頭部だけだと8万ドルとなっており、(アメリカ、カナダ、イギリス以外に住んでいる場合はさらに2万5千ドルかかる)生きている会員の年会費は620ドルである。クライオニクス研究所では終生会員費が1250ドルで凍結費用が2万8千ドル、ロシアのKrioRusだと全身3万ドルと頭部のみ1万ドルである。(2013年初頭の調べ)
クライオニクスにかかれば、死は人生の終焉ではなく、新しい若くて完璧な身体で復活するまでの「機能停止状態」でしかない。しかもそのあいだ本人の意識はないので、気がつけば病気や貧困、戦争といったものの存在しない夢の未来社会への片道タイムトラベルが終了している。人間、死んでしまえばそれ以上なにも失うものはない。人生を十分満喫したあとに、このような大冒険に賭けてみるのも悪くはないのではなかろうか。
【真相】
液体窒素温度で死体を冷凍することは現代でも可能だし、現代科学でも冷凍した植物や昆虫の再生実験に成功している。しかし、人間の死体を蘇らせることはまったく不可能で、ましてや凍結した頭部や脳から人体を再生することもできない。遠い未来ならそいういったことも可能になるのかもしれないが、今のところSFのネタといったところだ。
クローン技術を使えば人体をDNAから再生することも可能かもしれないが、個人の記憶は遺伝情報には含まれていないので、これはなにか別の方法で再生するしかない。ナノテクを脳に応用すればそのような情報の抽出も可能かもしれないが、そもそも記憶や意識がどのように脳の中に保存されているのかもよくわかっていない。
かつて1970年代ごろまでは20世紀中に人工知能の開発は可能だろうと予想されていた。その影響で、「2001年宇宙の旅」や「ターミネーター」、「地球爆破作戦」といったSF映画では、自我に目覚めた人工知能が、人類に対して反乱を起こしている。しかし、21世紀の今でもそのような人工知能は誕生していない。
つまり、意識の起源はいまだに未解明なのである。クローンされた脳やメモリチップへ記憶をコピーしたら、その人が蘇ったことになるのだろうか?その人の記憶を持った別の何かが誕生するだけかもしれない。
技術的なこと以外に経済的・社会的な問題もある。死体の再生が可能になるまで何十年、何百年かかるかわからないが、そのあいだ、本当に死体を安全に保存しておくことができるのだろうか?過去には資金難に陥ったクライオニクス団体で冷凍用のドライアイスを確保することができなくなり、遺体が融け出してしまった事例がある。遺体を長年保存しておくだけでも維持費がかかるが、遺体を再生するにはいくらかかるのだろう?
未来人はわざわざ過去の人間を蘇らせてくれるのだろうか?蘇ったあとの生活の保障は誰がしてくれるのだろう?知り合いも身寄りもまったくいない今とは生活様式も異なった未来社会で生きていくことは容易なことなのだろうか?もしかしたら「生きた原始人」みたいな見世物にされちゃったりしないのだろうか?「目が覚めたらパラダイス」みたいな発想は本当に現実的なのだろうか?
クライオニクス団体の内情を暴露した本としては「人体冷凍 不死販売財団の恐怖」(ラリー・ジョンソン、スコット・バルディガ著、講談社、2010年)がある。
この本の著者のひとりラリー・ジョンソンは実際にアメリカの非営利クライオニクス団体「アルコー延命財団」に勤務していた体験をもとに、その杜撰な遺体管理体制などを告発した。そのためジョンソンは、カルト的なクライオニクス信者から殺人予告などの脅迫を受けることになる。クライオニクスの熱烈な信奉者は、脳さえ保存しておけば未来の万能な超科学で必ず死者は蘇ると本気で信じているらしい。つまり、脳の長期保存こそが復活の絶対必要条件なので、いかなる理由であれクライオニクスを批判・内部告発するような者は、復活を妨害する絶対悪と見なされる。
クライオニクス希望者の遺体を巡っては、凍結保存しようとするクライオニクス団体と慣習通り埋葬したい遺族のあいだでトラブルも起こっている。アルコーでは、三冠王を2度獲得した有名なメジャーリーガーであるテッド・ウィリアムズの遺体をめぐり、その長女と裁判沙汰になっている。その結果、ウィリアムズの胴体は火葬され、頭部だけがアルコーで冷凍保存されることとなった。
また、死後できるだけ早く新鮮なまま凍結した方が遺体の保存状態がよくなると考えられるので、アルコーでは希望者の死期を薬物を使い意図的に早めたことがあったのではないか?という疑惑もある。
アルコー財団の内情について、その詳細はジョンソンの本を読んで各自判断してもらうとして、ここではクライオニクスの技術的な面の限界について考えてみたいと思う。生物の中には、凍結や乾燥によって本当に死んだような状態から蘇るものがいる。このような状態は「クリプトビオシス」と呼ばれ、生体の冷凍保存への応用などが実際に研究されている。また、ナノテクノロジーの医療への応用も実際に研究され、ナノテクという言葉を世に広めたドレクスラー博士に至っては死体の再生も可能だとしている。
これらの研究は本当にクライオニクスを可能にするのだろうか?
【ミイラ状態から生き返る生物】
クリプトビオシス(cryptobiosis)とは「隠された生命」といった意味で、凍結や乾燥によって新陳代謝が完全に停止し本当に死んだような生物の状態のことをいう。この状態にある生物は、冬が終わって氷が融けたり、雨が降って水分がもどると生命機能が再稼働し蘇って動き出すことができる。
クリプトビオシスを示す生物として一番有名なのは「小さな怪物」クマムシ(緩歩動物)であり、カラカラに乾燥したミイラのような状態から生き返ることができる。クマムシは体長数百ミクロン程度の微生物で、地球上の至るところに存在する。クマムシの種類は海の中にも生息しているが、乾燥に耐える性質(anhydrobiosis)を身につけたのは進化の途上で陸に上がってからだとされている。
クマムシのような小さな生物にとっては、水たまりが干上がるようなことでも生死にかかわる天変地異である。よって、微生物には耐乾燥性を示すものが多く存在し、とくに単細胞生物は長期間の乾燥にも耐えることができる。驚くべきことに岩塩中に閉じ込められていた2億五千万年前の細菌が蘇ったという報告もある。
乾燥耐性を示す最大の生物は、アフリカの乾燥地帯に生息するネムリユスリカのボウフラであるが、体調は5ミリ程度とそれほど大きくない。クマムシについては100年前のものに水を加えたら動き出したという話があるが、確かな記録があるわけではなく、実際に乾燥に耐えられるのは数か月くらいだと考えられている。これに対し、ネムリユスリカのボウフラは、17年間乾燥保存したものが生き返ったという報告がある。
凍結耐性(cryobiosis)を示す生物にはさらに大きなものもいて、シベリアやカナダといった寒冷地に住むカエル、イモリ、カメ等の両生類や爬虫類が知られている。カナダに住むカエルについては、冷凍庫に入れて1〜2週間ほどカチコチに凍らせておいても、解凍すれば生き返ることが報告されている。
乾燥耐性と凍結耐性のメカニズムはよく似ており、どちらもある種の糖が関連している。
クマムシやネムリユスリカは乾燥時にトレハロースと呼ばれる糖を蓄積させることが知られている。簡単に言うと、細胞が乾燥し始めると、水分がなくなり濃縮された糖がガラス状態(非晶質)となり、キャンディのように生体物質を包み込み保護するのである。
凍結の場合、体内で氷が発生するので、そのメカニズムはもうちょっと複雑になる。カナダのカエルの例では、身体表面が凍り始めると、肝臓でグリコーゲンからグルコースという糖が生産され、血管を通じて身体中に運ばれる。カエルの体内には氷の発生を促す氷核形成タンパク質というものも存在し、これが血管の中や筋肉と皮膚のあいだ等の比較的安全な部位で氷の発生を誘導する。それでも氷の結晶が大きくなりすぎると生体組織を傷つけてしまうので、氷の成長を阻害する不凍タンパク質というものも存在し、細かく小さな氷の結晶しか発生しない。さらに氷の発生により液体の水が減少すると、まだ凍っていない細胞内の水が浸透圧によって外に吸い出され、細胞内で濃縮されたグルコースは水飴のような状態になり凝固点降下という現象を起こし、細胞は凍りにくくなる。さらに温度が下がるとグルコースはガラス化し、最終的に乾燥したクマムシと同じようなキャンディ状態で細胞を保護する。
そのほか、タンパク質の高次構造が破壊されないよう補強する物質などの存在も確認されている。凍結耐性のある生物では必ず氷は細胞外で発生するので、この現象は「細胞外凍結」と呼ばれている。生体組織を保護する糖類は、クリプトビオシスからめざめた時の最初の栄養分になるとも考えられている。
クリプトビオシスは非常に興味深い現象であるばかりでなく、生体物質や食品・医薬品の長期保存への応用のため広く研究されていて、日本においては北海道大学の低温科学研究所が世界に誇る成果を発表している。1956年には世界で初めて、液体窒素温度で凍らせたヤナギの枝を常温に戻して挿し木で蘇らせることに成功した。さらに昆虫についても、もともと凍結耐性をもつイラガの前蛹(ぜんよう)やエゾシロチョウの3齡幼虫について、それぞれ液体酸素温度(-180℃)と液体窒素温度(-196℃)で凍らせたのち常温で蘇らせている。ただし、イラガについては、蛹から孵った成虫は凍傷でボロボロの状態であった。
これよりも大きな生物を液体窒素で凍らせると、冷却による体積変化によってひび割れが生じて死んでしまう。氷の発生による体積の膨張は0℃付近で起こるが、さらに液体窒素温度まで冷却するあいだにも体積は変化し、それが生体組織を破壊する。そこで、北米産の大型の蛾であるセクロピア蚕の蛹については、凍結保護剤であるグリセリンをあらかじめ注入しておき、さらに-30℃と-70℃の2段階で予備冷却してから液体窒素温度まで冷やすということをした。その結果、セクロピア蚕は生き延びたが、この蛹から孵った成虫は凍傷でボロボロになった無残な姿をしていた。
つまり、液体窒素のような低温で保存したからといって、必ずしもいいことばかりではないのである。昆虫でさえこの有様なのだから、これよりはるかに大きい人間を液体窒素で凍らせた場合はどうなるのだろう?
「人体冷凍 不死販売財団の恐怖」を読んでみると、やはりアルコー延命財団でも人間の頭部を凍結すると内部にひび割れが生じてしまうことが書かれてある。なんとアルコーでは凍結前にドリルで頭部に穴を開け、脳にマイクロフォンを差し込み、凍結時に生じるひび割れの音を録音しているそうだ。この録音がいったいなんの役に立つのかよくわからないが、脳は相当なダメージを受けているようであり、やはりナノボットのような超科学技術でもないかぎり修復は不可能だろう。
前述したように細胞内で氷が発生すると、その結晶は細胞を突きやぶり破壊してしまう。 クリプトビオシスを示す生物は細胞外凍結により細胞を保護しているが、もともと人間にそのような機能はない。凍結した脳はひび割れだけではなく、細胞ひとつひとつにダメージを受けている可能性がある。
アルコー財団では血液を抜いて代わりに特殊な保護液を注入するとしているが、全部の細胞に保護液が完全に行き渡るとはかぎらない。細胞内にその物質を取り込むトランスポーターやチャネル(その物質専用の生体膜に開いた出入り口)がない場合もある。また、死亡直後の新鮮な状態で凍結するのがベストだろうが、アルコーの施設から遠く離れたところに住んでいる人の場合はそれも難しく、運ばれてくるあいだに相当腐敗が進んだ状態になったこともあったようだ。
クライオニクス批判派の中には「凍結した死体を蘇らせるのは、ハンバーガーからもとの牛を蘇らせるのと同じくらい難しい」と考える人もいる。凍結された脳細胞はナノボットでも修復できないほどのダメージを受けているかもしれない。
なお、液体窒素に入れて凍らせた金魚をまた水に入れると、生き返って泳ぎだすという話はウソであり、つぎのようなトリックがあるとされている。液体窒素に一瞬だけ漬けてすぐに取り出せば、水で濡れた金魚の表面だけが凍り、薄い氷の中に閉じ込められた金魚は動けなくなる。これを水に入れると表面の氷が融けて金魚はまた泳ぎだすという仕組みだ。しかし、この方法で「生き返った」金魚も表面に凍傷をおっていて瀕死の場合が多い。時間をかけて内部までしっかり凍らせると金魚は生き返ることはない。
【ナノテクノロジーの夢と現実】
ナノテクというカタカナ言葉を使うとなにか特別なすごい技術のように聞こえるが、電子回路の集積化や機械のミニチュア化は昔から行われており、その究極の先にナノテクがあると考えればいい。つまり、現実的に開発中のナノテクとまだ空想の域を出ないナノテクの2種類が存在する。
1986年に著書「創造する機械」(パーソナルメディア、1992年)を出版したドレクスラー博士は、当時のアメリカ政府の科学政策に絶大な影響を及ぼしたとされる。このナノテク・ブームは世界中に飛び火し、とくに化学分野では研究対象の分子がもともとオングストローム・サイズなので、(1オングストロームは0.1ナノメートル)ブームに便乗していっせいにナノテク研究に名乗り出た。当時はナノテクを冠すると研究予算がもらいやすかったのである。
しかし、「未来学者」という肩書きを名乗るドレくスラー博士は、どちらかというと夢想家に近く、現実路線派のナノテク研究者からしばしば批判されている。ドレクスラー博士は「メカノシンセシス」や「自己増殖するナノボット」(ドレクスラーは「アセンブラー」と呼んでいる)等の概念を提唱している。メカノシンセシスとは機械で分子を組み立てることであり、それを行うのがアセンブラーである。彼の本を見ると、分子が乗って流れるベルトコンベアやその分子を組み立てるナノサイズのロボットアーム等の絵が載っていて、見ていて非常に楽しい。
しかし、ナノボットを1機作っただけではなんの役にも立たない。死んだ人の脳を修復するにしても、人間の脳には神経細胞が百億以上存在すると考えられているので、たったひとつのナノボットでは修復に時間がかかり過ぎて非現実的である。たとえ1分間で1つの神経細胞を修復できたとしても、全部で1万9千年以上かかる計算になる。
1つのナノボットが100個の細胞を修復できたとしても、全部で1億以上のナノボットが必要になる。もしも1つの細胞に複数のナノボットが必要だと、その数はさらに膨大なものになる。分子をひとつひとつ組み上げていくような細かい作業をするとなると、その数は天文学的(アボガドロ数的)になる。
もちろん、極めて精密な機械であるナノボットは非常に壊れやすいと予想されるので、壊れた時のための修理法や予備のナノボットも用意しておかなくてはならない。脳のクローンを作ってそこに記憶なり意識なりをコピーできれば、壊れた脳自体の修復よりもだいぶ手間が省けるかもしれないが、壊れたものをコピーしても仕方ないので、結局どこかで修復しなくてはならない。
そもそも、壊れる前はどういう状態だったのか、わかるのだろうか?脳の神経回路を完全記述するのも非常に難しい。10ナノメートルごとに電子顕微鏡で大脳皮質の切片を観察するとすれば、10万枚のスライスを見てやっと1ミリの厚さになる。
壊れたものを直しながらこれをコピーするとなるとやはり膨大な手間と時間がかかるだろう。
膨大な数のナノボットを効率よく生産する何かうまい方法はないのだろうか?ナノボットを組み立てるのにもナノボットが必要になるだろうから、「自己増殖するナノボット」を作ってしまえばいいというのがドレクスラー博士の主張である。じゃんじゃん自己増殖させて天文学的な数のナノボットを利用すれば、死んだ人の身体も一気に修復することができるというのがドレクスラーの発想だ。
これに対し、現実路線派のナノ研究者の中には「ナノボットはナンセンス」と考える人もいる。一番最初のナノボットはどうやって製造するんだ?という皮肉を込めた批判もある。自己増殖するロボットを作るということは、「人工生命を創造する」ということとほぼ同義であり、これは非常に難しい。そもそも大きなものであっても「自己増殖する機械」が製造されたことはない。
ナノボットに批判的な研究者の筆頭としてはバックミンスター・フラーレンの発見により1996年ノーベル化学賞を受賞したリチャード E. スモーリー博士が挙げられる。スモーリーによるサッカーボール型フラーレン分子C60の発見に端を発した炭素クラスターの研究は、その後カーボンナノチューブの発見へとつながり、まさにナノエレクトロニクスの礎を築いたといえる。
ナノテク実践派であるスモーリーにとって、夢想家ドレクスラーのナノボットは現実のナノテク研究についてあらぬ誤解を招きかねない迷惑なものだったのである。スモーリーは「太った指」と「くっつく指」の問題として、「機械的に分子を組み立てる」ことの難しさゆえにナノボットは非現実的だとした。つまり、ナノマシンを組み立てるロボットアームの指もそれ自体が原子からできているので小さくするにも限界があり、それほど細かい操作はできないだろうというのである。また、原子同士はくっつきやすい性質をもつので、これもまた操作の障害になるだろうとしている。
これに対しドレクスラーは「酵素やリボソームのようなものを使えばできる」と反論しているが、そもそも酵素やリボソームは生体物質の合成を行うものであり、機械のような無機物の合成ができるかどうかはわからない。それだったら、わざわざナノボットを作るより、バクテリア等を改造して利用できないのだろうか?とも思える。
もし仮に、自己増殖によって大量のナノボットを生産できたとしても、それをどうやってコントロールするのだろうか?前述したように脳の修復・複製を人間がいちいちやるのは手間がかかりすぎるので、できる限り自動化する必要がある。しかし、ナノボットにコンピューターを搭載するにしても、ものすごく小さなコンピューターが必要になる。そんなものが製作可能なのだろうか?
もし仮に製作できたとして、そんなものが故障した場合、すごくおかしなことになったりしないのだろうか?制御不能になったナノボットが暴走して自己増殖が停止できなくなると、地球全体がナノボットからなる「灰色」のべっとりした物体「グレイ・グー」(grey goo)に覆われてしまうのではないか?という話がSFにはよく登場する。(グレイ・グーの名付け親はドレクスラーとされる)
しかし、現実路線派から見ると、増殖するナノボット自体がナンセンスなので、グレイ・グーの発生を心配する必要はまったくないことになる。スモーリーは「我々の未来には、挑戦的で本当の危険が待ち構えているだろうが、あなた(ドレクスラー)の夢見る自己増殖するナノボットのようなモンスターは存在しない」として、子供が怖がるようなことを言うなと揶揄している。ナノボットが実現可能になっていない今、そういう心配はただの杞憂だろう。
【結論】
クライオニクスは「パスカルの賭け」の一種と言える。「パスカルの賭け」とはもともと信仰について「たとえ神の存在を証明できなくても存在するほうに賭けたほうがましだ」とする考え方である。これが転じて「たとえ勝つ確率がゼロに近くても、もたらされる利益が莫大ならば賭けてみる価値がある」という意味でも使われるようになったらしい。
金を掃いて捨てるほど持っている大金持ちはときどきこのような無茶な博打を打つことがある。たとえば、水を石油に変える技術とか無限エネルギー・永久機関といった実現が不可能そうなものの開発に投資することである。もちろん大損をするわけだが、裏庭に油田がいくつもあるような大金持ちならちっとも気にならないのだろう。
液体窒素温度で脳を冷凍保存したところで、今のところ、それを蘇らせるのは完全に不可能である。ただし、そのうち科学技術の発展でそれが可能になり、夢の未来社会に復活できる可能性もゼロではないかもしれない。クライオニクスの歴史はけっこう古く、世界で最初に凍結された人間は、1967年のカルフォルニア大学心理学教授ジェームズ H. ベッドフォードとされている。しかし、未だかつて誰ひとりとしてクライオニクスから蘇った者はいない。
ドレクスラーの「創造する機械」が出版されたのは1986年のことだが、まだ最初のナノボットは誕生していない。SFに登場する超技術が必ずしも実現するとは限らない。科学は際限なく進歩し、その進歩が必ず人間に幸福をもたらすと考えることは、一種の科学信奉・科学絶対主義ではなかろうか?
科学は万能ではないし、限界もある。2011年の福島第一原発事故に象徴されるように、科学の進歩はときとして人間に破壊的な不幸をもたらすこともある。寝ているあいだに世界が滅びてしまうかもしれないし、人間とは全く別のなにかに起こしてもらうことになるかもしれない。
しかし、もっと現実的に心配しなくちゃいけないのは、クライオニクス団体が途中でつぶれてしまう可能性だろう。そもそも死者はお金を払えないので、常に新しいクライオニクス希望者を見つけてこなければ、収入源はなくなる。ところが、保存すべき遺体の数が増え、保存期間が長くなればなるほど維持費がかかる。費用が極端に安いクライオニクス団体はちょっと心配かもしれない。死んでしまえば、自分の遺体がちゃんと保存されているかどうかも確認しようがない。
倒産が心配ならば、あらかじめ多額の寄付をクライオニクス団体にしておけばいいかもしれないが、それでも永遠に遺体を保存しておくことはできない。遺体の保存が科学的・経済的に可能なうちに、死者再生の超科学が実現しなければ、すべては無駄になる。また、もし仮に超科学を実現した夢の未来社会が到来したとして、再生にはいくらかかるのだろう?ナノボットもタダではあるまい。
クライオニクスという大博打に賭けてみるかどうか、最終的な判断はその個人がすべきものである。ただし、費用はそれなりにかかるので、遺産相続や遺体の埋葬方法などで遺族がもめないよう、あらかじめ遺言等を用意して周囲をしっかり説得しておく必要があるだろう。人間最後のときくらいは、周りに迷惑をかけずきれいに逝きたいものだ。
その他
- Fifty years frozen: The world’s first cryonically preserved human’s disturbing journey to immortality January 12, 2017、Corinne Purtill、Quartz
- 「死を克服することはできるのか?人体冷凍保存研究所をたずねて(米ミシガン州)」 2014年04月13日, カラパイア
このエントリではアメリカのクライオニクス研究所が紹介されている。ただ、相変わらずやっているのは液体窒素による遺体の冷凍保存だけで、凍結された遺体がいつ甦るのか、その目途はまったく立っていないようだ。
【参考文献】
- "Frozen: My Journey into the World of Cryonics, Deception, and Death" Larry Johnson and Scott Baldyga, Vanguard Press, 2009.
- Alcor Life Extension Foundation, http://www.alcor.org/
- Cryonics Institute, http://www.cryonics.org/
- KrioRus, http://old.kriorus.ru/en
- 「クマムシ?!―小さな怪物」(岩波 科学ライブラリー) 鈴木 忠、岩波書店、2006年
- "Isolation of a 250 million-year-old halotolerant bacterium from a primarysalt crystal" Russell H. Vreeland, William D. Rosenzweig, Dennis W. Powers , Nature 407, 897-900 (2000).
- "Cryptobiosis" John H. Crowe, Alan Cooper Jr., Scie. Am., 225, 30-36 (1971).
- Sleeping Chironimid ネムリユスリカ http://www.nias.affrc.go.jp/anhydrobiosis/Sleeping%20Chironimid/index.html
- "Mechanism allowing an insect to survive complete dehydration and extreme temperatures" M. Watanabe, T. Kikawada, N. Minagawa, F. Yukuhiro, T. Okuda, J. Exp. Biol., 205, 2799-802 (2002)
- "Frozen and alive" Kenneth B. Storey and Janet M. Storey, Scientific American, 62-67, Dec. (1990).
- 「虫たちの越冬戦略 昆虫はどうやって寒さに耐えるか」朝比奈英三、北海道大学図書刊行会、1991年
- 「植物の耐寒戦略 寒極の森林から熱帯雨林まで」酒井昭、北海道大学図書刊行会、2003年
- "Nanosystems: Molecular Machinery, Manufacturing, and Computation" K. Eric Drexler, John Wiley & Sons, 1992.
- 「ここまで来たナノテク」別冊日経サイエンス138、日経サイエンス、2002年
- "Nanotechnology: Drexler and Smalley make the case for and against 'molecular assemblers'". Chemical & Engineering News (American Chemical Society) 81 (48): 37-42. 1 December 2003.
- 「脳ブームの迷信」藤田一郎、飛鳥新社、2009年
- 「わたしたちはなぜ科学にだまされるのか」ロバート L. パーク、主婦の友社、2001年