ゼロ・ポイント・フィールド
ゼロ点エネルギー(zero point energy, ZPE)は一般的な科学用語で、量子力学の教科書にも登場するが、ゼロ点場(ゼロ・ポイント・フィールド、zero point field, ZPF)という言葉はあまり一般的ではない。リン・マクタガート著の「フィールド 響きあう生命・意識・宇宙」(文献1)に頻繁に登場する言葉であるが、これはニューエイジ系の啓蒙書である。「フィールド〜」に登場し、ユリ・ゲラーの超能力実験を行ったことでも有名なハロルド・パソフ博士らが書いた論文に「ゼロ・ポイント・フィールドのローレンツ力としての慣性」(文献2)というものがあるので、このあたりが語源なのかもしれない。量子場のゼロ点揺らぎのことをさす言葉であるらしい。パソフ博士の論文には「zero point fluctuation」という言葉も登場するが、主に使われているのはZPEである。パソフ博士の発表した文献の一部は「Earthtech International」のPublicationsのページからダウンロードできる。
ゼロ点エネルギー(ZPE)
「零点エネルギー」という言葉はごく普通に量子力学の教科書に登場する。電子などの素粒子の位置は不確定であり、「波動関数」を用いて確率論的にしか表せない。このことを古典論的に解釈すると、素粒子は静止することはなく、絶えずある程度動き回っていることになる。つまり運動エネルギーがゼロになることはない。たとえば、無限に深い、幅Lの井戸型ポテンシャルの中の質量mの粒子のZPEはh^2/(8mL^2)となる。ここでhはプランク定数であり、非常に小さな数字である。mが大きいほどZPEは小さくなることがわかるが、mが大きい粒子(たとえばサッカーボール)の場合、ZPEはほぼゼロに等しい。ZPEは量子力学的微粒子の場合に限って有為な大きさになることがわかる。また、幅Lが小さいほどZPEが大きくなることがわかるが、これは位置と運動量の間の不確定性関係(相補性)によるものである。つまり、位置がはっきりわかる粒子ほど、運動量の不確定性は大きくなり、ZPEも大きくなる。
原子のエネルギー状態は量子力学により決定されており、その様子は原子分光により観測することが可能だ。一番エネルギーが低い状態を「基底状態」と呼び、それよりもエネルギーの低い状態は存在しない。よって、ZPEは取り出すことのできないエネルギーだと通常は考えられている。つまり、微粒子の量子力学的性質をねじ曲げないと取り出せない。ところが、パソフ博士はZPEが原子核の周りに電子をつなぎとめているという仮説を唱えている。(この仮説はまだ立証されていない)(文献3と8) 原子核に引かれて電子がそこに落ち込んでしまわないのは、ZPEから電子が常にエネルギーを供給されているからだと解釈している。さらに、真空を効果的に操作できれば、よりエネルギーの低い基底状態を新しく形成することができるとも主張している。もし原子をこの新しい基底状態に”縮める”ことができれば、ZPEを放射するのではないかと考えている。
パソフ博士はこの仮説により「常温核融合」現象を説明できるかもしれないと指摘するが、同様な仮説を唱える人物は他にもいる。ランダル・ミルズ(Randell Mills)医学博士は水素原子を基底状態以下の状態に遷移させることにより、莫大なエネルギーを放出させることが可能だと主張した。(文献4) (どちらがオリジナルなのかははっきりしない)この存在しないはずの状態のことをミルズ博士は「ハイドリノ」(hydrino)と呼んだ。驚くべきことに、この「ハイドリノ理論」はNASAの支援を受け、冥王星まで行く宇宙船の動力源として利用可能かどうか試験されたことまである。その結論はどうやら「うまくいかなかった」というものであったらしい。「わたしたちはなぜ科学にだまされるのか―インチキ!ブードゥー・サイエンス」の著者のロバート・L. パーク博士は「ミルズ博士が正しい確率はどのくらいですか?」という問いに対して、その答えは「ゼロだ」と断言している。(文献4) ところがミルズ博士が設立した「ブラックライトパワー社」は一時期多額の投資を集めたようだ。
真空のエネルギー
ハロルド・パソフ博士は真空中のZPEを無限のエネルギー源として利用可能だと考えている。(文献6と7) ただし、これは永久機関の開発と同程度のむなしい考えで、物理学者のほとんどは絶望視している。(文献3)
量子力学の不確定性原理により、何もないはずの真空中でもエネルギーの揺らぎが生じる。この揺らぎの結果、真空中で素粒子が常に生成消滅を繰り返していると考えることができる。ただし、粒子は必ず反粒子と対になって現れ、一瞬で消えてなくなる。この対の出現は直接的に観測することはできないが、寿命は0.0000000000000000001秒程度だと推測されている。(文献3)真空中で瞬間的に現れる粒子は「仮想粒子」と呼ばれるが、この出現を実感できるのが「カシミール効果(Casimir effect)」である。非常に短い距離を隔てて置かれた金属板の間に存在できる粒子のエネルギー状態は量子化されている。これを古典論的に表現すると、金属板の間には定在波が立つことに相当する。つまり、定在波となる波動関数を持った限られた数の粒子しか金属板の間に出現することができない。その結果、金属板の外に出現する粒子に押され、金属板間には互いに接近しようとする力が生じる。これがカシミール効果である。(文献5) この効果を利用して真空からエネルギーを取り出すことができるかもしれないが、その量は非常に小さい。宇宙全体で考えると莫大な量のエネルギーになるが、ノーベル物理学賞受賞のスティーブン・ワインバーグ博士によると、地球程度の大きさの空間では、そのエネルギーの総量はガソリン1ガロン程度にしかならない。(文献3と14) 物理学者のビクター・ステグナー博士の計算によると、100ワットの電球を1秒間光らせるには、100万分の1メートルの間隔で置かれた、一辺が200キロメートルの正方形の金属板が2つ必要となる。(文献3)
ロスアラモス国立研究所のラモロウ(Steve K. Lamoreaux)博士はワシントン大学にいた時、金でコーティングした石英の薄片を使い、カシミール効果の精密な測定を行った。(文献9) この実験では100マイクロダイン(1ナノニュートン)の力を発生することに成功した。これは約10^(-15)ジュールのエネルギーを抽出できたと考えることができるが、1kgを動かす力を発生させるには、数kmもの長さの板が必要になる。(文献8) さらにこの装置を繰り返し使うには、板を引き離さなければならない。ラモロウ博士は「ヘンテコな連中から注目されて愕然とした」と打ち明けており、「ZPEの一派は、真摯な科学研究をほっぽらかしにして自己宣伝に明け暮れている」とも述べている。(文献8)
パソフ博士が所長を勤めるオースティン高等研究所(Institute for Advanced Studies at Austin)は過去10年間でおよそ10個のZPE抽出装置を検査したが、いずれもものにならなかった。(文献8) こうした装置の中には超音波を水に照射した時に起こる発光現象「ソノルミネッセンス」を応用したものもあった。ソノルミネッセンスとは、水中に生じた微小な泡が消滅(圧壊)する時に、断熱圧縮が起こって高温高圧のミクロな領域が生じ、その際に発光を伴うというものであるが、そのメカニズムはよくわかっていない。なかでも超音波の定在波によって保持された単一の気泡が起こす発光はきわめて強く、単泡ソノルミネッセンス(SBSL)と呼ばれる。(文献10) ノーベル物理学賞受賞のジュリアン・シュウィンガー(J. Schwinger)はSBSLが「動的カシミール効果」であるという説を唱えた。(文献11) 動的カシミール効果とは、二枚の金属板の間隔が急激に変化する場合に、ZPEから光子が放出されるという現象のことである。シュウィンガーは微小な泡が収縮する際にも同様な現象が起こると考えた。この説に刺激されてイギリスのエーベルライン(C. Eberlein)はSBSLの発光が加速度運動をする板とZPEとの相互作用によって光子の放出が起こるウンルー効果によるものだという説を提唱した。(文献12) しかし、エーベルラインの計算によると、気泡は遅くとも、10ピコ秒以内に平衡半径から最小半径まで収縮しなければならない。現在知られている気泡の動力学では、そのような急激な収縮は不可能であり、パソフらも余剰エネルギーはまったく検出できなかった。
Scientific American Frontiersというアメリカのテレビ番組でパソフらの研究が紹介されたことがある。「New Energy Age」でそのビデオクリップを見ることができる。超音波で水中に小さな空気の泡を発生させ、その泡の圧壊により真空のZPEを取り出すという装置が紹介されている。超音波発生装置に指で触れているが、ソノルミネッセンスを起こすことができるような高出力の装置に触れることは一般に勧められない。インタビューでパソフ博士は「20世紀が原子力エネルギーの時代だとすると、21世紀はゼロ点エネルギーの時代かもしれない」と述べている。これに対して、ノーベル物理学賞受賞のスティーブン・ワインバーグ博士は、真空のZPEの存在は認めているが、地球程度の大きさの空間から取り出せるエネルギーは1ガロンのガソリン以下であると述べている。(文献14)
その他、パソフ博士は真空のZPEについて、次のようにも考えている。(文献3)
- 重力もZPEによって生じている可能性がある。
- 慣性は物体が加速される時、ZPEの抵抗によって生じるのではないか。
- ZPE を正しく扱えれば、宇宙船は光より速く飛べる可能性がある。
著名なSF作家のアーサー C. クラークはこうしたZPEの応用を楽観的に考えており、「3001年終局への旅」ではSHARPという名の慣性消去駆動装置を利用する宇宙船が登場する。SHARPとは、A. Sakharov、B. Haisch、A. Rueda、H. Puthoffの頭文字を組み合わせたものである。(文献1) A. Sakharov(アンドレイ・サハロフ)博士はノーベル平和賞受賞の物理学者であり、残りの3人は文献2の著者らである。サハロフ博士は、ZPEが物質に変わる時、重力が生じるのかもしれないという推論をただ一度だけ述べたことがあるらしい。またSF作家として有名な物理学者のロバート L. フォワード博士は自著「SFはどこまで実現するか」の中で、ZPE装置の組み立て方について述べたことがある。(文献3) このようにZPE装置は、今のところ、SFに登場する小道具にすぎない。
1997年8月、NASAは「推進力に関する物理学のブレークスルーをめざすワークショップ」という会合を後援したが、ここでパソフ博士の仮説も発表された。このような会合にNASAの財源が使われることを公然と非難する科学者もいる。ロスアラモス国立研究所のミロンニ(Peter W. Milonni)博士はセッションの最中「星霊ナントカと言った議論をしている連中がいた」と証言している。「心は開いておかねばならないが、これまで私が見てきたものは、すべてエネルギー保存則に反しているようだ」とミロンニ博士は述べている。(文献8)
ZPFと超能力
パソフ博士はZPEをエネルギー源として利用することを目的に盛んに研究しているようだが、ZPFと超能力を積極的に結びつけようとしているようには見えない。「フィールド 響きあう生命・意識・宇宙」では『パソフが遭遇した空中浮遊の記録事例は、なんらかの方法で重力が操作された場合にのみ実現可能なように思われた』という記述があるが、これ以外の文献ではZPFと空中浮遊を結びつけるような記述を見つけることはできなかった。この本に対する書評が日本超心理学会の月例会(2005年6月26日(日曜))で読めるので、超心理学の専門家がこの本をどう評価しているか推測できる。どうも何から何までZPFで結び付けようとするリン・マクタガートの主張には無理があると考えているようだ。その結論を引用しておく。
全体として語りたいことに共感を抱かないことはないし、個々の真摯な研究は尊重すべきであるとも思う。しかし、ZPFという概念で結びつけようとした本書の試みは、それが物理的に一定の具体性をもつだけにかなり無理がある。さらに、物理学の門外漢を、あたかも物理学的な裏づけがあるかのように錯覚させる、かなり問題をはらむ著作である。
パソフ博士が超能力に関する研究を行っていたのはSRI(Stanford Research Institute、スタンフォード研究所)にいたころであって、オースティン高等研究所に移ってからは超能力関連の論文は発表していないようだ。「フィールド 響きあう生命・意識・宇宙」ではSRI時代に行っていた遠隔視(リモート・ビューイング、 remote viewing, RV)の研究も肯定的に取り上げられているが、懐疑論者からは痛烈に批判されている。(文献13) RVは基本的にZPFとは無関係なものである。
参考文献
- 「フィールド 響きあう生命・意識・宇宙」 リン マクタガート (著)、野中 浩一 (翻訳) 、河出書房新社
- 「Inertia as a zero-point-field Lorentz force 」 Bernhard Haisch, Alfonso Rueda, H. E. Puthoff, Phys. Rev. A 49, 678 - 694 (1994).
- 「インチキ科学の解読法 ついつい信じてしまうトンデモ学説」 マーティン・ガードナー (著) 光文社
- 「わたしたちはなぜ科学にだまされるのか―インチキ!ブードゥー・サイエンス」 ロバート・L. パーク (著)、栗木 さつき (翻訳)、主婦の友社
- 「宇宙論の新次元 別冊日経サイエンス136」 佐藤 勝彦 (編さん) 、日経サイエンス
- 「Extracting Energy and Heat from the Vacuum」D. C. Cole and H. E. Puthoff, Phys. Rev. E 48, 1562 (1993). See also Fusion Facts 5, No. 3, 1 (1993).
- 「The Energetic Vacuum: Implications for Energy Research」H. E. Puthoff, Spec. in Sci. and Technology 13, 247 (1990).
- 「真空からエネルギーを取り出せ 」 P. ヤム、日経サイエンス、1998年3月号 p.82-87
- 「Demonstration of the Casimir Force in the 0.6 to 6 μm Range」 S. K. Lamoreaux, Phys. Rev. Lett. 78, 5 - 8 (1997)
- 「謎が深まるソノルミネッセンス」 安井久一、パリティ Vol. 12 No.07 1997-07 4-11.
- 「Casimir Energy for Dielectrics」J Schwinger, PNAS 1992; 89: 4091-4093.
- 「Sonoluminescence as Quantum Vacuum Radiation」 Claudia Eberlein, Phys. Rev. Lett. 76, 3842 - 3845 (1996)
- 「新・トンデモ超常現象56の真相」 皆神 龍太郎 (著), 加門 正一 (著), 志水 一夫 (著), 山本 弘 (著) 、太田出版
- Scientific American Frontiersというアメリカのテレビ番組の「New Energy Age」