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テロリストとアル・カーイダ (911陰謀論)

ハイジャック犯

各旅客機内のハイジャック犯の座席の位置についてはZacarias Moussaouiの裁判における資料Prosecution Trial Exhibitsの「P200018」を参照。

ハイジャック犯の多くはビデオによる「遺書」を残しており、9.11テロ事件後にアル・カーイダはこれらを公開している。911myths.comのサイトを参照。

ハイジャック犯は生きているのか?

19名のハイジャック犯のうち8〜9名が生きていると主張する陰謀論者もいる。ハイジャック犯が生きているなら、是非その姿を見てみたいものだ。

これについては911 Mythsの「Hijackers still alive」を参照。FBIが全ハイジャック犯の写真リストを公開したのは9月27日のことであり、それ以前には間違った人物の写真がハイジャック犯として報道されてしまったこともある。こうした誤報を根拠に「ハイジャック犯は生きている」とされることもある。

911 Mythsでは、生きているとされる9人のハイジャック犯について詳細に検討している。

ハイジャック犯のDNA

WTCに突入した10名のハイジャック犯のうち、2007年9月までに4名の遺体が特定されている。ペンタゴンと93便の墜落地点からは9名のハイジャック犯の遺体が確認されており、まだ未発見なのは6名である。ハイジャック犯の遺体は合計11kg弱の肉と骨の塊であるが、ニューヨークとバージニアの秘密の保管場所に証拠として冷凍保存されている。

ただし、93便と77便については消去法でハイジャック犯の遺体が特定された。WTCの4人についてもFBIは誰の遺体が特定されたか公表していない。

遺体の特定は犠牲者の確認を優先的に行われたが、遺族はハイジャック犯と犠牲者の遺体を分別し、ハイジャック犯のそれを犠牲者のものから取り除くことを強く要望した。2009年現在でも犠牲者の遺体の確認作業は続けられているが、WTCの1126人とペンタゴンの5人の犠牲者の遺体はまだ確認されていない。遺体の多くは小さな断片と化したうえ、火災のため炭化しているので、DNAの抽出すらできないものもある。

上記の記事によると、2001年11月16日に終了したペンタゴンにおける法医学的な捜査では、189人の犠牲者のうち、184人の身元を特定した。遺族から提供されたDNAサンプルと一致しなかったこれ以外の5人がハイジャック犯とされた。(身元が確認されていない5人の犠牲者とは別に5人のハイジャック犯がいる) この件に関しては、米軍DNA鑑定研究室(AFDIL)の以下の論文も参照。

  • Naming the Dead」 S. M. Edson, J. P. Ross, M. D. Coble, T. J. Parsons, and S. M. Barritt, Forensic Science Review, Volume Sixteen Number One, January 2004

この論文によると、77便のハイジャック犯の遺体のうち、2人は兄弟だった可能性が高く、実際にナワフ・アルハズミ(Nawaf al-Hazmi)とサレム・アルハズミ(Salem al-Hazmi)は兄弟だったとされている。

上記の2つの記事によると、93便の墜落現場で遺体の確認を行ったのは、ペンシルバイア州サマセット郡検死官のウォレス・ミラー(Wallace E. Miller)とそのチームである。(ミラーはジェレ・ロングマン著の「ユナイテッド93」にも登場する) 9/11の2週間後には44人の乗員乗客のうち16名を指紋と歯型から特定した。しかし、残りの遺体の特定には、遺族から提供されたヘアブラシやカミソリをもとにDNA鑑定する必要があった。

そこで、ミラーらは墜落現場から発見された遺体の断片をメリーランド州Rockvilleの軍事DNA鑑定研究所に送った。その結果、遺族が提供した遺品から抽出されたDNAとは一致しない4人のハイジャック犯の遺体が特定された。このDNA鑑定の結果をもとに、ミラーは約48個、4.5kg以下のハイジャック犯の断片を犠牲者の遺体からより分けることに成功した。

ただし、ミラーも消去法でハイジャック犯を分別したので、どのDNAがどのハイジャック犯に相当するのか知らされていない。

WTCにおける犠牲者の身元確認作業は、ニューヨーク市の法医生物学局(Department of Forensic Biology)のRobert Shalerと彼のスタッフである105人の科学者が行っている。犠牲者の多いWTCでは、ハイジャック犯らの特定はさらに難しく、ShalerはFBIの鑑識官Alan Giustiにハイジャック犯のDNA鑑定を依頼した。

Giustiらはハイジャック犯がホテルの部屋やレンタカーに残した物証からDNAの抽出を行った。切り落とした爪や、チューインガム、ヘアブラシなど皮膚の断片が付いているものならDNAの抽出が可能である。レンタカーのハンドルやTシャツの襟の内側から皮膚の断片を採取している。ゴミ箱の中に捨てられたちり紙や唾液のついた煙草の吸殻も分析できる。その結果、2003年2月には、WTCに突入した10人のハイジャック犯全員のDNAコードが判明し、2名の遺体が特定された。この件については以下の文献も参照

2009年の時点では4名の遺体が特定されている。ただし、どのハイジャック犯の遺体が確認されたかについてFBIは明らかにしていないので、主犯格のモハメド・アタの遺体がその中に含まれているかどうかは不明である。

ハイジャック犯の遺族や祖国から遺体の引き渡しが要求されたことは今までなく、そのような請求がきた場合にはどうするかも決まっていない。UCLAのイスラム法の専門家Khaled Abou El Fadl教授によると、ハイジャック犯の遺族から遺体の引き渡し要求がないのは、それを要求してしまうと、彼らの身内が実際にハイジャック犯だったことを認めてしまうことになるからだ。これを避けるためにハイジャック犯の遺族は遺体の特定や返還に消極的であるようだ。

以上のように、93便と77便のハイジャック犯の遺体が消去法で特定された背景には、犠牲者の遺体の特定を最優先したこと、ハイジャック犯の遺族からは協力が得られなかったことが挙げられる。911テロでは3000人近くの犠牲者が出ており、限られた人員とリソースを割り振る必要があった。

ただし、WTCに突入したハイジャック犯については、遺留品からの特定も進んでおり、93便と77便についても同様な捜査が可能であると考えられる。今後、ハリード・シェイク・モハンメッド(KSM)らの裁判で新たな事実が公開される可能性もあるだろう。ハイジャック犯の遺族が、911テロはアメリカの自作自演だとかモサドの陰謀だと本気で信じているのなら、遺体の特定に協力するという選択肢もあるだろう。ハイジャック犯のDNAが別の人物のものであれば、無実を証明できるのだから。

以下のリンクも参照。

アメリカン航空11便American Airlines Flight 11

11便の乗員乗客とハイジャック犯の座席の位置については以下のリンクを参照。

モハメド・アタMohamed Atta

911同時多発テロ実行犯の主犯格であり、AA11便のパイロットだったとされる。1990年にカイロ大学工学部を卒業、1992年10月ドイツ、ハンブルグ工科大学に入学。都市計画学を専攻し、1999年10月には学士号を取得するが、2001年3月新学期の更新をせず除籍となる。1996〜98年ごろアフガニスタンに滞在していたらしい。1996年4月には「遺書」を書き、署名している。

テロリストの軌跡」(文献1)によると、フロリダ州ベニスのホフマン航空学校経営者のルディ・デッカース(Rudi Deckers)は朝日新聞の取材に答えて、以下のように証言している。

二人(アタとアルシェヒ)はすべての試験に一発で合格した。半年も航空学校で学んだら、だれでもできることだよ。成績は平凡だった。テロの後に、いろいろな人から「彼らの技術で世界貿易センタービルに旅客機をぶつけることができるか」って聞かれたけど、もちろんだ。乗用車を運転できれば大型トラックを前に進めることができるように、小型機を操縦できる彼らなら旅客機でぶつかることはできるよ。離着陸はまた別の話だけどね。

航空学校に入学して5週間後、離着陸の訓練中、アタは「そんなことは習いたくない。空中で操縦できるようになればいいんだ!」と教官に対して怒りだしたという。

フロリダ州ハリウッドのアタらが住んでいたアパートから歩いて5分ほどの店「シャッカムズ」で、テロの三日前、アタらは酔って暴れたという噂がある。敬虔なイスラム教徒が酔っ払って暴れるはずがないので、アタらはニセのテロリストであると主張する陰謀論支持派もいる。しかし、実際は酔って暴れたわけではないようだ。文献1によると、アタはクランベリージュース、アルシェヒはウォッカのオレンジジュース割を注文したところ、48ドルも請求されたため、ウェイトレスとマネージャーのトニー・エーモスと口論になっただけ、とのこと。

また、フロリダ州デイトナとネバタ州ラスベガスにある風俗店で、テロ実行グループがストリップショーなどに興じていたという報道もあったが、地元のFBIは否定している。(文献1) 特にデイトナの店はテロリストらには土地勘もなければ、訪れる必然性もなかった。テレビ報道もされた「テロリストが来た店」の経営者は、朝日新聞の取材を拒否したそうだ。

アタの父親が「息子は犯人ではない。今もきっと、どこかで生きている」と主張している。9月24日の記者会見で「テロはモサドのしわざに違いない。息子のパスポートを使ってやつらがやったんだ。息子はどこかで監禁されている」と主張した。(文献1) モサド陰謀説はイスラム圏では人気のある説であるが、もちろん根拠はない。以下のリンクも参照。

アブドルアジズ・アルオマリ(Abdulaziz al-Omari

ワイル・アルシェフリ(Wail al-Shehri

ワリード・アルシェフリ(Waleed al-Shehri

サタム・アルスカミ(Satam al-Suqami

アメリカン航空77便American Airlines Flight 77

77便の乗員乗客とハイジャック犯の座席の位置については「Flight 77 Manifest」(911 Myths)を参照。

ハニ・ハンジュル(Hani Hanjour

ナワフ・アルハズミ(Nawaf al-Hazmi

ナワフ・アルハズミ(Nawaf al-Hazmi)とサレム・アルハズミ(Salem al-Hazmi)は兄弟だったとされている。

サレム・アルハズミ(Salem al-Hazmi

ハリド・アルミダル(Khalid al-Mihdhar

アル・カーイダ幹部とされる。

マジド・モケド(Majed Moqed

ユナイテッド航空93便United Airlines Flight 93

93便の乗員乗客とハイジャック犯の座席の位置については「Flight 93 Manifest」(911 Myths)を参照。

ジアド・ジャラ(Ziad Jarrah

911委員会の最終報告書では「ハンブルグ・セル」(Hamburg cell)の一人とされているが、他のセルメンバーといっしょに暮してはいないようだ。

サイード・アルガムディ(Saeed al-Ghamdi

アフメド・アルハズナウィ(Ahmed al-Haznawi

アフメド・アルナミ(Ahmed al-Nami

ユナイテッド航空175便United Airlines Flight 175

175便の乗員乗客とハイジャック犯の座席の位置については「Flight 175 Manifest」(911 Myths)を参照

マルワン・アルシェヒ(Marwan al-Shehhi

「ハンブルグ・セル」(Hamburg cell)の一人。

ファイズ・バニハマド(Fayez Banihammad

アフメド・アルガムディ(Ahmed al-Ghamdi

ハズマ・アルガムディ(Hamza al-Ghamdi

モハンド・アルシェフリ(Mohand al-Shehri

テロリスト

オサマ・ビン・ラディンOsama bin Laden

FBIはビン・ラディンを911の容疑者とみなしていない?

FBIの「Ten Most Wanted Fugitive」のサイトで、「USAMA BIN LADEN」のページを見てみると、以下のように書いてある。

オサマ・ビン・ラディンは、1998年8月7日、タンザニアのDar es Salaamとケニアのナイロビのアメリカ大使館爆破事件との関連で指名手配されている。これらの攻撃で200人以上が死んでいる。さらに、世界中におけるその他のテロ攻撃についても、ビン・ラディンは容疑者である。

つまり、ビン・ラディンは1998年のアメリカ大使館爆破事件以外のさまざまなテロ攻撃の容疑者でもあるということ。さらに以下のようにも書かれてある。

アメリカ合衆国国務省の司法報奨金制度では、オサマ・ビン・ラディンの逮捕や断罪に直接結びつく情報に対して、2500万ドルの報奨金を提供する。

そこで、アメリカ合衆国国務省の司法報奨金制度のサイトの「Wanted Usama bin Ladin: Up to $25 Million Reward」を見てみると、こちらでは以下のように書かれてある。

オサマ・ビン・ラディンは、2001年9月11日の世界貿易センターとペンタゴンへの攻撃、そして、1998年8月7日のタンザニアのDar es Salaam、ケニアのナイロビのアメリカ大使館爆破事件との関連で指名手配されている。

以下のリンクも参照。

オサマ・ビン・ラディン殺害さる

2011年5月2日未明、パキスタン、アボタバードの隠れ家を急襲されたオサマ・ビン・ラディンは、米海軍特殊部隊SEALSの隊員によって、頭部を撃たれて死亡した。ところが、ビン・ラディン氏の遺体が直ちにアラビア海で水葬されたことや、米政府が遺体の写真公開に消極的であることが、さまざまな「陰謀論」を巻き起こした。

その中で主流のものは、すでにオサマ・ビン・ラディン氏は数年前に死亡していたが、米軍のアフガニスタン侵攻を正当化するため、オバマ政権がニセの殺害作戦を実行したというもの。(911自作自演説とは異なる)

ニセの作戦を実行することにどれだけメリットがあるかは疑問だが、米国のこの強引なやり方がベストだったとは思えない。オサマ・ビン・ラディン氏が死亡することによって、事実の一部が解明される機会は永遠に失われた。これでは陰謀論が巻き起こっても当然だろう。裁判になった場合、アメリカに不利益となる証言がビン・ラディン氏の口から出る可能性もあるわけで、これは本質的に口封じであると解釈することもできる。

また、当初は銃撃戦のすえ、撃ち殺されたとされていたが、最初から特殊部隊には「殺害」命令が出ていたと報じられた。さらに、隠れ家から畑を隔てて約100メートルの場所に住む少年(16)が、毎日新聞の取材に対し、小さな爆発音が3回ほど響き、10発くらい銃声を聞いただけで、すぐに静かになったと証言した。

さらにロイターによると、襲撃で死亡した4人のうち、銃で応戦したのは1人だけだったと、米政府の情報に詳しい関係筋が明らかにしたそうだ。ビン・ラディン氏は射殺された際は武器を持っていなかった。

上記のように、テロ組織アル・カーイダは、オサマ・ビン・ラディン容疑者の死亡を確認する声明を発表した。同声明はアル・カーイダが運営する「聖戦」を呼びかけるウェブサイトに掲載されたとのこと。同サイトは報復の予告も行っている。

以下のウィキペディアの項目も参照。

その他

ザカリアス・ムサウイZacarias Moussaoui

通称「20人目のテロリスト」

ハリード・シェイク・モハンメッド(Khalid Sheik Mohammed, KSM)

9.11テロの立案者とされる。

[ワシントン 4日 ロイター] 2001年9月の米同時多発攻撃の主犯格ハリド・シェイク・モハメド被告と4人の共犯者について、米国防総省は4日、キューバのグアンタナモ米海軍基地にある特別軍事法廷で裁判を行うと明らかにした。

モハメド被告らは、テロの実行やハイジャック、共謀、戦争法に違反する殺人などの罪に問われ、有罪となれば死刑の可能性もあるという。

モハメド被告らの司法手続きをめぐっては、テロ行為の被告が通常の犯罪者と同様に一般法廷で裁かれるべきか、敵の戦闘員として軍事法廷で裁かれるべきか論争となっていた。

11月の大統領選で再選を目指すオバマ大統領にとって、この裁判はもろ刃の剣。国際武装組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディン容疑者を殺害した奇襲作戦の成功を思い起こさせる一方、オバマ大統領が前回の選挙で公約に挙げながら実現できていないグアンタナモ収容所の閉鎖問題に焦点が当たる可能性もある。

国防総省によると、モハメド被告らは30日以内に召喚されるという。

アイマン・ザワヒリ(Ayman al-Zawahiri)

ビン・ラディン亡きあと、アル・カーイダの新指導者となった可能性がある。

その他の人物

アル・カーイダ

9/11までの時系列

  • 1988年8〜9月:旧ソビエトのアフガニスタン占領が終了を迎え、イスラム諸国からアフガンに集まったムジャーヒディーンの中で、アル・カーイダが設立された。初期のメンバーは十人程度だったと考えられている。
  • 1990年:アル・カーイダは拠点をアフガンからスーダンに移し始める。ビン・ラディンはサウジアラビアにもどる。イラクのクウェート侵攻が始まり、アメリカがサウジに駐留するようになる。これにビン・ラディンは激しく抗議したためパスポートを剥奪される。
  • 1991年:ビン・ラディンはサウジを脱出し、スーダンに移る。
  • 1994年:サウジ政府はビン・ラディンの財産を凍結し、市民権を剥奪する。
  • 1996年:中央情報長官のJohn DeutchがCIAの対テロリストセンターにオサマ・ビン・ラディンを調査する特別部門を設置。エジプトもしくはサウジ政府の諜報機関によるビン・ラディン暗殺未遂事件が起こり、5月19日にビン・ラディンはスーダンを脱出しアフガンに戻る。
  • 1996〜1997年ごろ:KSMがビン・ラディンと会見し、飛行機を使った自爆テロなどによりアメリカ本土を攻撃することを提案した。しかし、ビン・ラディンは当時アメリカ本土そのものを攻撃するのは無理だと考えていたようで、この提案にはあまり興味を示さなかった。代わりにKSMにアル・カーイダに参加するよう招待したが、KSMはこれを断った。(文献3)
  • 1998年2月23日:ビン・ラディンが記者会見を開き、アメリカがアラビア半島を「占拠」していることを批判。アメリカとその同盟国に対し無差別な攻撃と殺害を行うことは、すべてのイスラム教徒の責務であるとWorld Islamic Frontの名のもとにファトワーfatwa)を発令した。
  • 1998年8月7日:ケニアのナイロビの米大使館で爆破テロがあり、213人が殺害され、数千人が負傷した。飛散したガラスにより視力を奪われた被害者は150人以上に上る。(文献15 ) その9分後、タンザニアのDar es Salaamの米大使館でも爆破があり、11人が殺され、85人が負傷した。これがアル・カーイダ自体による最初のテロ攻撃である。(文献2)
  • 1998年8月20日:米大使館爆破テロに対する報復として、クリントン政権はにアフガニスタンとスーダンに巡航ミサイルによる攻撃を行った。標的はアフガニスタンのKohtの近くで開かれるイスラムテロリストの会合と、VXガスを製造していると考えられるスーダンの化学工場だった。アフガニスタンの標的には75機のトマホークミサイルが撃ち込まれ、20人以上が死亡したがビン・ラディンは無事だった。スーダンの化学工場にも13機のトマホークが撃ち込まれ、夜警員が一人死亡した。その後、ここは化学兵器製造工場ではないことが判明する。(文献3)
  • 1998年後期〜1999年初期:ビン・ラディンがKSMに「飛行機計画」の開始を指示。
  • 2000年10月12日:米海軍のミサイル駆逐艦「コール」(USS Cole (DDG-67))がイエメンのアデン港でアル・カーイダの自爆テロ攻撃を受け大破し、17人の水兵が死亡した。
  • 2001年9月9日:アフガンでタリバンと対立していたNorthern AllianceのリーダーAhmad Shah Massoudが、テレビ局のニュース・リポーターに偽装したアル・カーイダの工作員により、テレビカメラに仕込まれた爆弾の爆発で暗殺される。

その他


参考文献とリンク

  1. テロリストの軌跡」 朝日新聞アタ取材班 (著)、草思社 (2002/04)
  2. The Looming Tower」 by Lawrence Wright、Knopf (August 8, 2006) 、「倒壊する巨塔<><>―アルカイダと「9・11」への道」(平賀 秀明:翻訳、白水社 (2009/08) )として邦訳されている。
  3. The Ground Truth: The Untold Story of America Under Attack on 9/11」 by John Farmer, Riverhead Hardcover (September 8, 2009)
  4. Perfect Soldiers」 by Terry Mcdermott、HarperCollins (May 3, 2005)
  5. Ghost Wars」 by Steve Coll、Penguin Press HC, The (February 23, 2004)
  6. アルカイダ」 ジェイソン バーク(Jason Burke), 講談社 (2004/9/11)