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バグダッドの古代電池(旧バージョン)

(補足)

ここでは「呪文用容器」説を支持しているが、これで決着しているわけではない。

この項目を書いた人物と現在連絡が取れていないため、この項目は修正されないままの状態が続いている

現状は、「現代人が見ると電池のようにも見えるが、実際どう使われていたかはわかっていない」といったところのようである。以下のページを参照。代わりに私(ながぴい)が調べたことがまとめてある。

バグダッドの古代電池

経緯

 1930年代、奇妙な内部構造を持った壷がバグダッド周辺の古代遺跡から次々と発見された。
アスファルトの詰めもので入り口を封印された素焼きの壷の中に、銅で出来た円筒形容器が納められており、さらに、その容器の中心部には鉄製の棒が挿入されていた。
当時、バグダッドのイラク博物館の館長を務めていたドイツ人のヴィルヘルム・ケーニッヒ(オーストリア出身の画家)は、これらの壷を、古代パルティア人(BC248年〜AD226年)が装飾品に金メッキを施す際に使用した「電池」だと主張した。[1]
鉄と銅の2金属間を適切な電解液で満たせば、電位差によって電流が生じる。
この仮想上の電解液が、かつて容器の中を満たしていたことを示す根拠も存在した。鉄の棒は、何らかの溶液に侵されたかのように、酸化して腐っていたのである。
事実であれば科学史を塗りかえる発見となる「古代の電池」仮説は、第二次世界大戦終了後、多くの研究者たちに検討されていった。
硫酸銅、酢酸、クエン酸、フルーツジュース、ベンゾキノンなど、古代パルティア人にも使用可能な電解液が次々に試され、作製されたレプリカにおいて、微弱ながらもそれらが実際に電流を発生させることが示された。
また、電解液にブドウジュースを用いた実験では、シアン化金の溶液に浸した銀製品を、数時間で金メッキ加工させることにも成功している。

不合理な電池仮説

 この「古代の電池」説には、実は妥当性というものがほとんどない。
例えば、電流を発生させることが可能というが、そもそも、それを可能にする"内部の電解液"の存在自体が仮説である。
ところが、この仮説の唯一の根拠となる鉄の棒が酸化して腐っていたという事実は、あえて電解液の存在を仮定しなくても、もっと単純な別の理由で説明できてしまう。
土中に埋められていたこれらの壷は、長い年月の間、無傷のままそこにあったわけではなく、アスファルトの封印も壷本体も、当然のことながら劣化し損傷を受けていた。雨水などの土中水分の浸食は、容易に鉄を腐らせる。壷が土中に埋められていた期間を考えるなら、鉄の棒が酸化して腐った状態で発見されたとしても特別不思議な話ではない。

電解液の存在を仮定してみても、電池説にはかなりの問題がある。
成功したといわれる実験では、どれも、本来の構造とは異なる"改造レプリカ"が使用されてしまっている。
遺物の本来の構造では、入口がアスファルトの詰め物で銅容器ごと封印されているため、化学反応に必要な酸素の供給が取れなかったり、取れても電気回路自体を形成することができない。つまり、構造上、電池としての使用には無理があるのだ。

また、「古代の電池」の使用を裏付けるような外的事実も見つかっていない。
ケーニッヒは金の電気メッキ製法を主張したが、実際には当時の金メッキは、水銀を混ぜて行なう無電解のアマルガム法[2]や、金箔を打ち付ける方法で行なわれていたことが判明している。
電池の使用目的に関する仮説は他にもいくつか出されているが、電気メッキ説同様、どの主張も物的証拠を欠いた単なる想像説でしかない。一部の者たちの空想の中を除き、バグダッドはおろか近代以前の世界のどこにも、電気利用に結びつくような技術の痕跡はまったく見つかっていないのである。

そうした根本的な問題に加え、これをパルティア時代の遺物とする年代推定についても大きな疑問が持たれている。
ケーニッヒはホーヤット・ラブア遺跡(1936年発掘)から出土したとされる遺物に基づいて、これをパルティア帝国時代のものと考えた。
しかし、壷本体の様式はパルティア時代のものではなく、次代のササン朝(AD226年〜AD651年)の様式である。
ホーヤット・ラブア以前にセレウキア遺跡(1930年発掘)やクテシフォン遺跡(1931/32年発掘)で発見されていた同種の遺物も、それぞれの発掘者たちによって、ササン朝時代のものと判断されている。

古代の電池の正体

 戦後、センセーショナルなケーニッヒの電池説ばかりが注目されてしまったせいか、戦前の発掘者たちがすでに見つけていた重要な事実は、世間には殆ど伝わらなかったようである。 
この奇妙な壷は必ずしも正体不明の遺物ではなかった。実は、セレウキアの発掘者リロイ・ウォーターマン、クテシフォンの発掘者エルンスト・キューネル、両者共に、これらの遺物の内部にパピルス紙の残骸と見られる植物性繊維が入っていたことを記録していたのだ。

この事実と内部容器の形状を考えれば、遺物の正体は容易に想像が付く。
つまり、壷の中にあったのは電解液ではなく、"パピルス文の巻物"だったのである。鉄の棒は巻物の軸、銅の円筒形容器は巻物の保護ケース、壷はその保存容器と捉えるのがごく自然な解釈だろう。
古代における壷の巻物保存容器としての使用例なら、イラクの隣国ヨルダンの死海周辺でも数多く見つけることができる。

壷がアスファルトで封印されていた理由も説明可能である。
考古学者エメリッヒ・ペッツォリは、セレウキアやクテシフォンで発見されたこれらの壷が、すべて建物の基礎穴まわりから出土していたことや、古代のメソポタミア世界では、鉄や銅の金属には、特別な宗教上の意味( 鉄には「強さ」、銅には「保護」の意味 )があったことを論じた上で、遺物の正体が、建物を建てる時の祝福文や祈祷文を納めた"呪文用容器"であると説いた。[3]
当時の人々は、金属が持つという魔法の力を利用することで、悪霊や災いから建物を守ろうと考えたのだろう。中心の鉄の棒は、巻物の軸というよりも、魔法の力の増強のために打ち込まれたものだったかもしれない。
いずれにせよ、祈祷文の類を入れた壷と考えればアスファルトで封印されていたこともうなずける。

付け加えるならば、"バグダッド電池"と呼ばれるこれらの遺物には、実は様々なバリエーションが存在していた。
例えば、電池説の基になったホーヤット・ラブアの壷の内部容器が、くるめた銅板を鉛でハンダ付けした密閉型だったのに対し、セレウキアやクテシフォンのものは、側面の接合部が溶接されていない青銅製の半密閉型だった。
また遺物の中には、中心部の鉄の棒を持たないものや、鉄の棒が銅の棒に置き換わっていたものまであったそうである。
電池説では説明困難なものも含むそれらのバリエーションにも、"巻物を封印した壷"というごく自然な解釈からは何の不都合も生じない。
だが、最も重要な変種はクテシフォンで見つかっていた壷だろう。
その壷は、アスファルトの封印の下に、パピルスと青銅から成るスパイラル状のパーツを納めていた。パピルスと青銅製の薄いシートを一緒にぐるぐるとくるめた物体、それは巻物そのものとしか解釈しようがない。


  • [1]1938年に当時の科学雑誌に報告。また、帰国後の1940年に出した著書『 Neun Jahre Irak( イラクでの九年 ) 』において、改めて同説を主張した。
  • [2]水銀と金の混合溶液を加熱すると、約350℃で水銀だけが蒸発するという現象を利用したメッキ製法。古代においてはポピュラーなメッキ製法だった。
  • [3]メソポタミア地方では、これに類する慣習化された儀式が紀元前のヒッタイト時代から存在していたことがわかっている。建築物の基礎部に対して行なわれたその儀式では、銅、青銅の釘、鉄のハンマーなどが重要な魔法のアイテムだった。

参考

  1. 『新・トンデモ超常現象56の真相』  : 皆神 龍太郎、志水 一夫、加門 正一 著
  2. Die Batterie von Bagdad
  3. Riddle of 'Baghdad's batteries' - BBC NEWS Science/Nature -
  4. Die "Batterie von Bagdad" : Lars A. Fischinger
  5. Elektrizitat im Altertum? : Walter Hain
  6. Das Licht der Pharaonen (Energiequellen ) : Frank Dornenburg
  7. KADATH (Les piles de Bagdad “Mais a quoi ca sert ?”)
  8. The enigmatic 'battery of Baghdad.' (scientific theories on the ancient uses of a 2,000 year old finding)  - Skeptical Inquirer - : Gerhard Eggert
  9. Baghdad Battery - Wikipedia, the free encyclopedia -
  10. The batteries of Babylon Bad Archaeology
  11. PARTHIAN BATTERY」 The Circle of Ancient Iranian Studies (CAIS)