ムー大陸
与太話の始まり
ムー大陸の話は、もともと、1864年にフランスの神父シャルル・エティエンヌ・ブラッスールが、スペインのマドリッド王立歴史学会でディエゴ・デ・ランダという司教が書いた『ユカタン事物記』の抄録を発見したことから始まる。
この抄録には、マヤ文字をアルファベットに変換した、「マヤ・アルファベット」といわれるものが載っていた。マヤ文字解読のロゼッタ・ストーンを手に入れたと思ったブラッスールは、早速このアルファベットを使って『トロアノ古写本』(トロ=コルテシアノ古写本の一方)から、失われた大陸の記録の“解読”を行った。
そして解読がすすんでいくと、ブラッスールはある一対のシンボルに遭遇した。
彼によれば、あるひとつのシンボルは「マヤ・アルファベット」の“M”に似ているという。そしてもうひとつのシンボルは、“U”に似ている・・・
ここでブラッスールは驚くべき飛躍的結論を下した。この二つのシンボルは、失われた大陸の名を表しているに違いない。その大陸の名は、「M+U」、つまりムー(MU)である。(同様の“解読”は、1886年にフランスのピラミッド神秘学者オーギュスト・ル・プロンジョンも行っている)
これが、今日まで伝説として語り継がれることになる「“ムー”大陸」の名前が誕生した経緯である。
しかし、ブラッスールが“解読”に利用したランダの「マヤ・アルファベット」は、後の調査で実はまったく使い物にならないことが判明した。(つまり勘違いだったということ)
さらに、後に完全ではないもののマヤ文字の解読研究が進むと、ブラッスールが「失われた大陸の記録」だと思い込んでいた『トロアノ古写本』が、実は単なる占星術の本であることも判明した。
ブラッスール(とル・プロンジョン)の“解読”は、二重に間違っていたのである。
チャーチワードによるムー大陸伝説
今日、一般の間でも広く知られている「ムー大陸」の伝説は、ブラッスールなどがムー大陸の原型を作ってから後に、ジェームズ・チャーチワードという自称軍人が主に作ったものである。
彼によれば、インドの英国駐留軍に従軍していたときに、現地の寺院の高僧が“門外不出の秘密の粘土板”を見せてくれたという。
また、ウィリアム・ニーヴンというアメリカの技師によってメキシコで発見されたという石の銘板に、チャーチワードがインドもしくはチベットで見た粘土板に書かれていたものと同様の文字を見つけ出したという。
しかし、アメリカのSF作家で懐疑論者でもあるライアン・スプレイグ・ディ・キャンプが、チャーチワードの過去について調査したところ、彼は「10代の頃から英国軍に従軍し、世界各国へと赴いて遺跡などを調査していた」とも主張していたが、なぜか若い頃にアメリカで、『A Big Game and Fishing Guide to North-Eastern Maine』(『メイン州北東部への大物釣りガイド』)という本を書いていたことが判明した。
また、『ボーダーランド』1996年9月号にて月岡よし氏が行った調査でも、公式記録を保存している機関に軒並み問い合わせてみたものの、該当する人物は見つからなかったことが判明している。
また粘土板に関しては、ニーヴンの粘土板のほうは写真も残されており、一応実在することが確認されているが、チャーチワードが自説の最大の根拠としている、インド駐留時に高僧から見せてもらったという粘土板のほうは、実在がまったく確認されていない。
つまり、元々このムー大陸伝説はブラッスールらの発見からして勘違いであり、その後のチャーチワードの話に至っては、信憑性が著しく低いホラ話と判断せざるを得ないのである。
参考文献
- 『プラトンのアトランティス』 ライアン・S・D・キャンプ (角川春樹事務所 1997年)
- 『Lost Continents』 L. Sprague De Camp (Dover Pubns 1970年)
- 『ボーダーランド』 (ハルキ・コミュニケーション 1996年9月号)
- 『トンデモ超常現象99の真相』 と学会 (洋泉社 2006年)
- 『失われたムー大陸』 ジェームズ・チャーチワード (角川春樹事務所 1997年)