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書評:「超心理学 封印された超常現象の科学」

この本では、『科学者たちからオカルト扱いされ、まともにとりあわれることなく「封印」されてきた』として、本流科学が加害者で、超心理学は被害者のように言われている。しかし、本当にそうなのだろうか?悪いのは本流科学だけなのだろうか?超心理学にはなにも落ち度がないのだろうか?

この本を読むと、なぜ超心理学が本流科学から信用されず疎まれているのか、その原因がよくわかる。しかし、超心理学者はなにが悪いのかまったく気づいていないようだ。要するに、超心理学の考えはニューエイジの思想そのものだということ。とくに、「実験者効果」のようなものを肯定している限り、超心理学は擬似科学である

さらに超心理学が問題なのは、統計判定(p値判定)ばかりに頼り、「超能力がある」と判定することに固執する点にある。物理現象は「あるなし」論のように二極化できるものではない。「あるとすれば、その効果はどのくらいの大きさなのか?」という定量的考察が必須である。現実には、仮に超能力が存在するとしても、その効果は直接測定できないほど小さいということなのだが、超心理学はそれを一切認めようとしない点が疑似科学的なのである。

おかしな言説を排除できない超心理学

この本では、超心理学者ディーン・ラディンの統計データが頻繁に紹介されている。

第2章はリモート・ビューイング(遠隔透視)についてであり、ジョー・マクモニーグルが登場する。

日本で疑似科学(ニセ科学)問題について少しでも詳しい人なら、この二人の名前を聞いただけで不信感を抱くのではないだろうか?

日本において、ラディンは「水伝」に関するヘンテコ論文を2報発表したことで知られている。これは、アメリカのカルフォルニアに置いてある水に、日本やヨーロッパから念を送り、どんな氷になるか確かめたという実験である。もちろん念を送った水の方が、統計的にきれいな氷になったという結論なわけだが、この実験のデザインは常識的に考えてトンデモないレベルのものである。

きれいな言葉できれいな氷の結晶ができるという主張もトンデモないものであれば、日本やヨーロッパからカルフォルニアにおいてある水のペットボトルに念がピンポイントで届くという発想もトンデモないものだ。つまり、この論文は2重にトンデモないもので、おそらくラディンに実験をやらせたら、どんなものでも「統計的に有意」となるであろう。

ラディンの科学者としての資質を疑っている懐疑主義者は大勢いるだろう。石川氏もこの件について334ページ脚注4で批判的なことを書いているが、彼の科学者のとしての資質を問うところまでは行っていない。

マクモニーグルに至っては、ちっとも当たっていない透視を日本のテレビスタッフがいかにこじつけて当たっているように見せかけるか、そのやり口が「超能力番組を10倍楽しむ本」(山本弘、楽工社、2007/03)などで暴露されている。マクモニーグルは日本では「FBI超能力捜査官」として知られるが、彼自身がFBIに所属していたことはないし、FBIにそういう役職があるわけでもない。つまりこれは日本のテレビ局が勝手につけたナンチャッテ肩書きなのだが、彼自身はテレビ局に抗議するわけでもなく、このインチキ肩書きを容認しているようである。

マクモニーグルが「鉱脈を知るのに、遠隔透視は最良の手段といえるだろう。地中の様子が手に取るようにわかり、埋まっている鉱脈の種類も知ることができる」などと語っているのを読まされると、「んなわけねぇだろ!」とツッコミたくなる人はさらに大勢いるだろう。

科学界から信頼を得るためには、こうした人物を登場させるのはかえって逆効果である。おかしな言説を排除できないようであれば、超心理学界には自浄効果がないということで、不信感を募らせることになる。

ところが、石川氏をはじめ、超心理学界の面々はそういうことには無頓着なようで、リモート・ビュアーとしてのマクモニーグルの評価はアメリカでは高いようだ。また、「量子の宇宙でからみあう心たち―超能力研究最前線」(ディーン・ラディン、徳間書店 、2007/08)によると、ラディンは超心理学国際会議で最多の4回にわたって議長を務めたとのこと。つまり、超心理学界の看板研究者といったところだ。

これでは本流科学と超心理学のあいだの溝はなかなか埋まらないだろう。

超心理学・超能力に関する七つの誤解

本書冒頭には「超心理学・超能力に関する七つの誤解」というものが挙げられているが、石川氏自身もなにか誤解しているようなので、これについてちょっと述べてみたいと思う。

石川氏によると、超心理学に対して、一般に以下のような誤解があるらしい。

誤解1 超心理学はオカルト研究である

科学を標榜するつもりならば、神秘主義と無縁なのが当然だろう。「オカルトではない」などといばって言うようなことではない。超能力研究は、もともとグレーゾーンにある分野なので、科学だと思う人と思わない人の両方がいても不思議ではない。

そもそも、オカルトであるという単純な理由だけで批判されているわけではないし、科学ならば批判されないということもない。科学だろうがなかろうが、あまりに突飛なことを主張すれば、批判されても仕方ない。科学は「査読」という制度によって、専門家同士が常に批判し合い、自浄作用を促す方法論を導入している。(必ずしもこのシステムがいつもうまく作用しているわけではないが)つまり、科学であるならば、常に批判にさらされることになる。相対論や量子力学も初期の頃は理不尽な批判にさらされてきた。

理不尽な批判にさらされているので「かわいそうだ」と個人的に感じる人もいるかもしれないが、同情や寛容さを要求されても、科学は、そういう感情を持ち合わせてはいない。

誤解2 超心理学者は超能力の存在を信じている

ディーン・ラディンは明らかにビリーバーだと思われるし、ラディンの文献を翻訳した石川氏もほぼビリーバーと言って差し支えない。もちろん、心理学者の中にはリチャード・ワイズマン(Richard Wiseman)のように超能力に懐疑的・否定的な立場から研究報告をしている人もいるが、ラディンらとは明らかにスタンスが違う。

ワイズマンのような懐疑的なやり方には賛同するが、ラディンや石川氏の主張の多くは、科学の論法ではない

誤解3 超心理学はずさんな実験をしている

科学者コミュニティに超能力の実在を納得させるような実験はしていない。超能力の存在によってのみ説明できる現象を示すことができれば、超能力の存在を認めざるを得ない。しかし、どうとでも解釈できるような実験結果をいくら積み上げても納得しない者は納得しないというだけのことである。

並外れて突飛な主張をするのであれば、ずさんな研究ではダメなのは当たり前で、実験の正確さやバイアスの排除によりいっそう厳格さが要求されるのが当然である。

また、統計学とは、少数のサンプルから、全体のだいたいの傾向を予測する学問なのだから、極めて弱い効果が実在するかどうか検証するのに適しているとは限らない。超心理学の問題は、超能力の効果の大きさを直接測定することができないのに、「統計的有意性」ばかり持ち出すことである。これは、きわめて奇異な態度である。

誤解4 超心理学の扱う現象には再現性がない。

本当に「安定した統計的効果が得られている」というのなら、統計結果のみで勝負すべきである。下降効果や実験者効果などの超心理学独自のルールを持ち出す必然性はない。

石川氏は本書の中で、『超心理学実験で安定して肯定的結果が出るのは、能力をもった一部の超心理学者に偏る』と述べており(352ページ)、そうした超心理学者としてホノートン、シュリッツ、ラディンを挙げている(202ページ)。石川氏は自覚していないようだが、この主張は超心理学の実験には第3者による再現性がないことを自ら認めていることに他ならない。

誤解5 超心理学は一三〇年間の研究にもかかわらず成果がない。

超心理学の、最大の研究成果は、「もし仮に超能力が実在したとしても、その効果はきわめて弱く、現実世界にほとんど影響をおよぼさない」ということである。このことを、石川氏を含めた超心理学者は素直に認めるべきだろう。「下降効果、ヒツジ・ヤギ効果、実験者効果、隠蔽効果など」は超心理学独自のルールであり、他の研究分野で実験結果をそのように解釈したりはしない。そういったものを成果である等と主張するのは擬似科学である

誤解6 超能力があるとすれば科学が崩壊する

??? 本当にそんな誤解をしている人が大勢いるのだろうか?むしろ、超心理学の今までの研究成果は、たとえ超能力が存在したとしても、その効果は極めて弱いため、科学が崩壊するということはあり得ないということを示している。

超能力が実在するのならばなにも問題はない。それが自然の一部であり、なんらかの法則性があれば、それを科学も受け入れるだろう。超能力によって「科学が崩壊する」と考えている科学者はほとんどいないだろう。

誤解7 超能力があるとすればカルト宗教を擁護してしまう

超能力が実在し、自然の一部だというのなら、なんの問題もない。むしろ、カルト的なのは、超能力の存在が確定していないのに、それが実在すると信じ込み、その効果に過大な期待を抱くことである。「下降効果、ヒツジ・ヤギ効果、実験者効果、隠蔽効果など」といったものはカルトの論理そのものである。

「超能力は実在する」という強力な正のバイアス

超心理学の実験結果は「超能力は存在するとしても、統計的な有意性を示す程度であり、それ以上強力なものは存在ない」ということを示唆している。

しかし、超心理学界はいまだに「ホンモノの超能力者はきっとどこかにいるはずだ」という儚い夢を捨て切れておらず、現実を直視できない曖昧な態度が本流科学をイライラさせる原因の1つとなっている。

この本にも先述のマクモニーグルをはじめ、ユリ・ゲラー、ナターシャ・デムキナ(Natasha Demkina)、御船千鶴子清田益章といった有名な「超能力者」が登場する。

石川氏が無名の自称超能力者をテストする場合、ジェイムズ・ランディばりに厳しい態度で臨み、ほとんど門前払い状態である。(これじゃぁ、ナターシャをイジメたサイコップのことを悪く言えませんぜ、石川先生…) しかし、超有名な超能力者の評価はけっこう甘い。石川氏のアンビバレントな心の内を覗いたような気がする。

ユリ・ゲラーについては、「超心理学者のあいだでさえもゲラーの評価は二分され、実態はわからずじまいとなっている」としている(p.123)が、この主張はとても受け入れ難い。おそらく懐疑主義者のあいだでユリ・ゲラーに超能力があると思っている者はいない。

超能力肯定派のゆうむはじめ氏でさえも、ユリ・ゲラーのステージショーを観賞した結果、「ユリ・ゲラーは真正の超能力者に違いない」という信念が「全くもって覆されてしまったのである」と自著で告白している。(ただし、ゆうむ氏はゲラーのパフォーマンスを「本当の超能力を隠蔽するための陰謀ではないか?」と考えている)

ユリ・ゲラーこそが超能力に対する不信感を決定付けた張本人であろう。石川氏も超心理学の不祥事(101ページ)として、レヴィ事件とソール事件の2件を挙げている(超心理学講座 1-7 詐欺的行為、石川 幹人)が、これだけでは超心理学の問題を矮小化しようとしているようにも見える。

ゲラーとリモート・ビューイング(RV)については、ターグとパソフがネイチャー誌に論文を1974年に発表している。これに対し、マークスとカマンが時間をかけて徹底的に反証しており、彼らの著書「Psychology of the Psychics」(David F. Marks, Richard Kammann, Prometheus Books, 2000/12)にその詳細が記載されている。その結果、ターグとパソフのネイチャー論文は、本流科学の超心理学に対する不信感を決定的に高めてしまう要因となった。懐疑主義者はこのネイチャー論文を科学界の大スキャンダルとみなしているが、超心理学者はそうは思っていないようだ。

スプーン曲げを科学的検証条件下で実行できた超能力者はいない。御船千鶴子は明治時代の人物なので、今更検証しようがない。こういう話をいくら持ち出したところでなんの証明にもならない。

石川氏の著書では以下のように結論されている(156ページ)。

「超能力者」というと私たちは、いつでもどんなことでもできると想定しがちだが、超心理学者の見立ては、せいぜい「ある条件が整ったときに限定したことだけができる」程度だ。

「ある条件」とはいったいどういう条件なのだろう?超能力に懐疑的な人物がそばにいると超能力者はその実力を発揮できないというのであろうか?だとすると科学的検証は原理的に無理なのだろう。それは科学の問題ではなくて、超能力者のほうの問題である。プレッシャーに非常に弱いというのが超能力者の特徴なのであろうか?

超心理学は今までのところ「統計的に有意」という形でしか超能力の存在を示せていない。それなのに、超能力者が実際するかもしれないという希望的観測を述べるのはただのダブル・スタンダードである。これも本流科学が超心理学に対して不信を抱く大きな要因となっている。

安易な楽観論は、超心理学は客観的な立場で実験をしていないのではないか?という疑惑を生む。超能力が存在するという強い信念のもとで実験をしても、そこには強力な正のバイアスがかかっているとみなされ、超心理学が厳正な実験を行っているといくら主張しても信用されないという悪循環が続いている。

トンデモない主張が次々飛び出す超心理学

超心理学の超能力に対する考え方は非常に独特なもので、本流科学の多くの科学者が同調できず、これも超心理学を疎む要因の1つとなっている。

テレパシー・透視・予知は同じものなのか?

たとえば、テレパシー、透視、予知という3種類の超能力について、石川氏は以下のように述べている(225ページ)。

超心理学者は、それら三つはESPという一体のものではないかとさえ考えている。予知は将来の透視であるし、テレパシーは人の心の透視というわけだ(テレパシーでさえも「心の透視」ではなく、送る画像はなにかに描かれているので、過去か現在か未来にあるその画像を透視している可能性も指摘されている)。そしてこの時間を超えた透視の考えは、超心理学分野では、能力者や実験者のあいだで共有されていることである。

超心理学分野で何を考え何を共有するかは自由だが、こんな雑な考察で本流科学が納得するとは思えない。3つの超能力が同じように見えるというのは超心理学者の主観だろう。

テレパシーが物理世界を介さない心と心の直接的な繋がりによる情報伝達ならば、情報伝達の媒体となる物理的実体は必要ないのかもしれない。しかし、封筒や箱の中を覗く透視の場合は相手がいない。見ている者がいないのに封筒や箱の中身が見えるというのは、テレパシーとは別の現象のように思える。さらに、予知のように、今そこにないものまでも見えるというのは、まったく別の現象だろう。

物体の内部構造を物理的に探るには、X線や透過性の高い素粒子が利用できるだろう。しかし、超能力の透視の場合、その実態は全く不明だ。

さらに、未来から遡って現在に情報がもたらされるというような現象は、今までに観測されたことはないし、原理的に可能かどうかも不明だ。超能力の存在も確定的ではないのに、超能力なら予知が可能だという主張は、憶測を2重にかさねたものであり、とても信ぴょう性があるとは言えない。

カール・セーガンが、ガンツフェルト実験に対して寛容であったのにはちゃんと理由があるわけで、予知は論外だと考える懐疑主義者がいても不思議ではない。『予知の行いにくさは特段みられていない』という説明には説得力がない。テレパシーも透視も予知も一緒くたにするようでは、どれもデタラメなのではないか?と疑う者が出てきても仕方がないだろう。

しかし、この点については石川氏も織り込み済みなようで、225ページで以下のように述べている。

超心理学者は「予知」を主張した時点で、物理学に対してたいへんな挑戦をしたことになる。政治にたけた人ならば、まずはより受け入れられる可能性の高い「透視」を主張して、物理学者とよい関係づくりを先行させるべきだと言いそうだ。ところが超心理学者にとって、予知は無視できない貴重なテーマだ。

石川氏はこれを政治的な問題と考えているようだが、それは間違っている。科学的な議論においてはまず確実なところから証明していくべきであり、いきなり突拍子もない主張をしても誰にも相手にはされない。

ミクロPKとマクロPKは同じものなのか?

さらに、念力(PK)についても同様に安易な論考がなされている。258ページを見ると、『乱数発生装置のような、微視的な過程に働く小さい念力』が「ミクロPK」であり、『物体移動や金属曲げのような、巨視的な物体に働く大きい念力』が「マクロPK」であるとされている。

マクロPKについては、実験室条件下で確認されたことはなく、おそらく実在しない。ミクロPKは、サイコロ投げや電子雑音による乱数発生装置のような確率過程に作用するという奇妙な性質を持ち、マクロPKをそのまま小さくしたものではない。つまり、乱数発生装置が出力する数値を制御する能力ということなのだが、どうやったらそういうことが可能なのか、これもまともな説明はされていない。マクロとミクロPKは同じ「念力」に分類されているが、これも同じ現象ではないだろう。むしろミクロPKは、マクロPKの存在を確認できなかったことで誕生した、その場しのぎのアドホックな仮説のような印象がある。

261ページに、ストロンチウム90のベータ崩壊による「単純な」二値出力乱数発生装置と、電子雑音による二値出力100回の多数決で最終二値出力を決める「複雑な」乱数発生装置を比較したミクロPKのシュミットの実験について、以下のように書いてある。

三五人の訪問者が被験者になった結果、単純な乱数発生器では偶然比一〇万分の一、複雑な乱数発生器では偶然比一〇〇〇分の一となった。偶然比は異なったものの、両方とも問題なく効果が出たことから彼は、複雑さは超心理現象の妨げにはならないと結論する。

また、巻末付録の「統計分析の基礎」362ページには、サイコロPK実験について、『PK実験群全体のz値はなんと18.2であり、先の表を大きくはみ出すほどきわめて有意であった』としている。

サイコロや電子の運動、放射性核種の原子核崩壊はまったく別の物理現象であるのに、ここでもなんの説明もなしに、そのどれもに同様な超能力的効果があるとしている。

PKについては否定的な超心理学者もおり、たとえば、スターゲート計画でマクモニーグルとリモート・ビューイングの研究を行ったエドウィン・メイは、『自然界にはESP以外の物理的な超心理現象(心が物に直接影響を与えて変化させる現象)は存在しないという主張を展開している』そうだ(264ページ)。(メイはミクロPKも予知の一種「決定拡張理論」で説明できるとしており、この考えにはミクロPKというアノマリーをひとつ消去できるという利点があるが、予知は不可能だと考える者にとっては、あまり意味のない考えでしかない)

しかし、これは超心理学者のあいだの共通認識にはなっていないようで、実験室での再現は難しいが、マクロPKも突発的に起こりうると考えている者が多いようだ。

たとえば、209ページのポルターガイスト現象について、『特定の人物が超心理現象の源となった「反復性偶発的PK」であると解釈されている』という記述がある。「反復性偶発的PK」とは『マクロPK現象を無意識的に断続して繰り返すこと』(p.376)とのことだが、この本にも書かれているとおり、ポルターガイストを発生させていると疑われる人物は、多くの場合、家庭環境に問題を抱えた未成年である。
 
超心理学者は、この未成年がマクロPKを起こしていると解釈するようだが、常識的にはその子のイタズラを疑ってみるべきだろう。

以上見てきたとおり、超能力を一貫して説明できる作用原理は存在しない。それにもかかわらず超心理学者は、テレパシー、透視、予知、ミクロPKといったような様々な現象が、「統計的に有意」という弱い効果だが存在すると主張し、マクロPKのような強い超能力も、突発的に起こりうるとしている。

原理説明が全くできないのに様々な現象が起こるという主張は、超能力にはある種の万能性があると言っているのと同じで、これ自体が矛盾を孕んでいる。どんな超能力に対しても統計的な有意性が出るということは、そもそも超心理学の基準が甘過ぎるのではないか?という疑念が生じる。普通なら、実験のほうに何かおかしな点があるのではないか?と疑うが、超心理学者はこうした批判を受け入れようとはしない。これも本流科学が超心理学を疎んじる原因のひとつとなっている。

d値

各超能力について、効果の代表的な指標d値(有意性の指標p値ではない)が巻末付録「統計分析の基礎」の361ページに載っているので、ここでその値を紹介しておく。このd値は0.2で小さな効果とされ、0.5で中程度の効果に至り、0.8で大きな効果であるとおおよそ見なされるそうだ。(具体的にどの程度の効果なのかはこれではわからないが)

  • サイコロPKの実験:0.01
  • カードを使ったESP実験:0.02〜0.03
  • ガンツフェルト実験や遠隔視などの自由応答ESP実験:0.2前後に安定
  • ベムの開発した予感実験:0.2(高得点者に限って集計すると、0.4を超えることが示されている)

なお、2枚のカーテンの裏の画像を予知するベムの「エロティック刺激の予感実験」(偶然確率50%)ではd=0.25であるが、当たりは53.1%なので、d値が0.2を越えていてもかなり小さい効果だということがわかる(238ページ)。

超心理学分野のみで通用する独自ルール

超心理学が本流科学に受け入れられない最大の理由は、超心理学分野内部のみで通用する「独自ルール」が存在し、これらのルールが、超能力の存在に否定的な実験結果を無効化するのに使われているからである。

こうしたルール(効果)が存在するので、「超心理学は科学である」とは言い切れない状況を作り出している。「超能力には人間の心の影響があるので、通常の科学の方法では解明できない」という主張は、良くも悪くも、超心理学は一般の科学ではないことを示している。

巻末の用語集から、その代表的なものを抜粋すると以下のようになる。(これら以外にも同様な独自ルールは多々存在するので、順次説明していく)

  • 下降効果(Decline Effect):一連の実験セッションの後半に至るに従って、超心理実験のスコアが低下し偶然平均に近くなる(ときにはミッシングにもなる)傾向。
  • 実験者効果(Experimenter Effect):実験者が実験結果に与える影響で、一般には実験対象(被験者など)の取り扱い方の問題を指すが、超心理実験では実験者が超心理的能力を発揮して結果に影響を及ぼすことを主に指す。
  • ヒツジ・ヤギ効果(Sheep-Goat Effect):超心理実験の成功を信じる被験者(ヒツジ群)が成功を信じない被験者(ヤギ群)よりも実験得点が有意に高くなる傾向。

一見、これらはバイアスのことを言っているように見えるが、超心理学者に言わせると、これらも超能力現象の一部であるらしい。

一般的な科学研究のバイアス

一般に、科学的な発見は検証が進むと発見当初よりもその効果が弱まって、当初言われていたほどすごくないことが判明することが多い。

なぜなら、どんな科学論文でも著者の主観が入り込んでいるからである。科学論文には新規性とインパクトが求められるので、異常で興味深い研究成果はただちに論文として報告されるが、平凡でつまらない成果はなかなか報告されない。さらに、科学者も人間なので、自分の発見を大げさに誇張して吹聴してしまう傾向にある。

言うまでもないが、誰だって論文に載せるデータは一番きれいなものを選ぶ。わざわざ汚いデータを載せる者はいない。そんなことをしたら、論文の信ぴょう性を疑われてしまうからだ。よって、最初の論文は実際よりも誇張されたものになり、検証が進むと、その効果は弱まっていく傾向がある。

また、科学者は自説を支持するような研究成果は報告するが、支持しない成果を無視したりする。自分の説に有利なように実験条件を設定することもする。また逆に、敵対説を支持するような成果は報告しないが、それに否定的な成果を報告したりもする。科学者も姑息な手段を色々駆使するので、さまざまなバイアスが存在する。東日本大震災のときの福島第一原発事故がそのいい例だ。「原発は安全だ」というバイアス(安全神話)に、原子力技術者・研究者が凝り固まっていたため、あの大惨事を引き起こした。

科学研究において、バイアスは避けられない問題であり、実際の効果はこれを差し引いたものとなる。バイアスの影響は、統計を多用する分野ではとくに深刻なものとなる。

ところが超心理学分野においては、バイアスの一部も超能力現象であると解釈され、それは本質的に差し引くことができないものだとされている。

実験者効果

「実験者効果」については、198ページから書かれてあるが、要するに超能力的効果によって、実験者の動機・期待や心理的状態が、被験者の実験結果に影響を与えるという主張である。この独自ルールを受け入れれば、超能力に否定的な者や懐疑主義者による検証は無効となり、肯定的な者やビリーバーによる実験のみが有効ということになりかねない。

普通の科学実験ではこうした「超能力の効果」を考慮してはおらず、一般的な科学研究の公平性から考えると、この主張は受け入れられるものではない。なぜなら、超能力の存在を証明するための実験なのに、超能力に否定的な結果が出ても、それも超能力のせいにされてしまうという最強の主張だからだ。これではなにも証明できない。

なお、200ページには、懐疑論者のリチャード・ワイズマンと超心理学者のマリリン・シュリッツ(Marilyn J. Schlitz)が共同研究を行い、「実験者効果」に肯定的な結果が出たという記述があるが、その後、ディーン・ラディンも加わり、3度目の実験が行われ、再現性がなかったという論文が出ている。

仮にもしホンモノの超能力者が実験者になったとしたら、大きな実験者効果が期待できるのではないか?202ページに以下のような記述がある。

ことによると、有能な研究者はみな能力者なのだろうか。よい成果をあげている研究者は、総じてよい被験者でもある。超心理学者のホノートンも、シュリッツも、ラディンもそうだ。

また、巻末の読書ガイド353ページの「マインド・リーチ―あなたにも超能力がある」(ラッセル・ターグ、ハロルド・パソフ、集英社、1978/02)の書評にも興味深いことが書いてある。当初は、誰にでも遠隔視の能力があり、この方法でできるという触れ込みだったので、石川氏も数回実験に参加してみたが、とても成功とはいえない結果だったそうだ。そしてつぎのように書かれてある。

いまでは実験者のターグが能力者であるため、実験者効果でどの実験もそこそこうまくいったから「誰でも能力を発揮できる」と誤解したのだ、ともささやかれている。

我田引水、自画自賛もここまでくるとなかなかのものである。ここからわかることは、超心理学者は、ホノートンやシュリッツ、ラディンやターグらが超能力に肯定的すぎるバイアスのかかった報告をしていると考えることはないということだ。超心理学者には「超能力は存在しない」という選択肢はないということなのだろう。

さらに352ページの「超常現象のとらえにくさ」(笠原 敏雄:編集、春秋社、1993/07)の書評には以下のように書かれてあり、超心理学者が実験者効果を非常に重要であると考えていることがわかる。

実験者効果は、超心理学者がもっとも確実視する超心理学現象の特徴である。たとえば、機器に異常信号が記録されるのは、機器を操作する実験者の超能力によるという可能性の指摘だ。したがって、超心理学実験で安定して肯定的結果が出るのは、能力をもった一部の超心理学者に偏るという。実験者効果に予知の可能性を加味すると深刻な事態が予想される。実験者効果があるのなら、実験協力者効果も、実験立会人効果もあるだろうし、将来その実験結果を耳にする人々の効果も考えねばならない。すると、誰でもが確認できるように公的に記録することが、現象の発現を妨げるというように、超心理実験は閉鎖的に管理できない複雑システムであることに気づく。この本では、超常現象が公になることをきらうというある種の原理があるように扱うが、もしかしたら否定派の実験効果なのかもしれない。

実験者効果は、超心理学者がもっとも確実視する超心理学現象の特徴だそうで、「実験者効果などない」という選択肢も超心理学にはないようだ。

なお、「「水の記憶」事件」で有名なジャック・ベンベニストも実験者効果を主張したため、「デジタル生物学」の反証実験にはロボットが使用された。もちろん結果は「デジタル化された信号を水に記録できる」という主張に否定的なものであった。

下降効果

一般の科学実験においては、同様な実験を繰り返すと、その実験の欠点が見つかり改善されることによって、精度が上がり厳密な実験ができるようになると考える。また、より多くの人が参加することによってバイアスや確率論的な偏りが排除され、より公正な実験結果が得られるようになると考えられる。

ところが、超心理学研究の場合、実験を繰り返すことによって有意性が下がると、それは「下降効果」という超能力的効果のせいにされてしまう。

下降効果については270ページから説明があり、『こうした「下降効果」は、懐疑論的には「お蔵入り効果」のひとつと解釈されがちだ』とあるが、下降効果の原因となりうるのは、なにもお蔵入り効果だけではなく、前述したような実験の改善による精度の向上も考えられる。また、ただ単に実験回数が増えたことによって偏りが減り、確率平均に近づいただけなのかもしれない

さらに270ページの最後のほうには以下のように述べられている。

しかし超心理学分野では、「お蔵入り」を排除した管理実験でも多くの「下降効果」が検出されており、超心理現象の重要な性質と考えられている。いまでは、「下降効果」の原因は、実験の繰り返しで被験者(ときには実験者自身)が「退屈」するためと考えられている。

ここでは「お蔵入り」をどうやって排除したのか、詳しいことは書かれていない。「お蔵入り」の影響をある程度推測することはできるだろう。しかし、確実にその効果を排除するには、成功失敗を問わずすべての実験結果について報告する必要があるが、これは手間もかかり非常に難しい。「すべてを報告するように」というルールを作っても、このルールが確実にいつも守られているか本当のことは誰にもわからない。

下降効果の原因が「退屈」することだというのなら、被験者をときどき入れ替えて退屈しないようにすればいいと考えるかもしれないが、超心理学の独自ルールはそんなに単純なものではない。括弧の中に書かれた『(ときには実験者自身)』というのが味噌なのだ。つまり、サイコロを振ったりカードを当てたりする被験者ではなく、その実験を監視している実験者が退屈すれば「下降効果」が現れるという理屈だ。当然こんな屁理屈を受け入れる懐疑主義者はいない。

「実験者効果」や「下降効果」については、ワイズマンの以下の批判記事も参照。

ヒツジ・ヤギ効果

実験者効果が、実験者が実験に与える超能力的な効果だとすると、「ヒツジ・ヤギ効果」は、被験者が実験におよぼす超能力的な効果のことである。本書では189ページからその説明が始まっている。

この効果はガートルード・シュマイドラー(Gertrude Schmeidler)によりESPカード実験の結果から見つけられ、その追試実験やメタ解析もこの効果を裏付けているとのこと。

この効果の特徴は、ヒツジ群が高得点を取ることだけではなく、ヤギ群が確率平均よりも有意に低い点を取ることにある。シュマイドラーは、これを「ESPを発揮して正しいターゲットを知ったうえで、無意識に別なコールをした。それが自分の信念に合致していたからだ」と説明したそうだ。

超能力を信じてない人は、どんなに当てようと努力しても、自分の超能力のせいで当てられないということなのだろうか?ヒツジもヤギも同等なESP能力を持つとしたら、両者の結果を足し合わせたら、ちょうど確率平均になるのだろうか?この点に関する定量的な議論は本書には書かれていない。

212ページの脚注6によると、『しっかり当てることを「ヒッティング」、無意識のうちにわざと外すことを「ミッシング」と呼んでいる』とある。ヒツジ群は常にヒッティングし、ミッシングするのはいつもヤギ群だけなのだろうか?巻末のミッシングの項目には以下のように書いてある。

  • ミッシング(Missing):超心理学実験で、偶然平均より有意に低い得点を取る傾向で、ESPを発揮して正しいターゲットを意識下で知ったうえで、別なコールをしたと解釈されている。

かなり御都合主義的な「解釈」であり、この説明ではミッシングがヤギ群特有の現象かどうかはわからない。もしかしたら、ヒツジ群もミッシングを起こすことがあるのではなかろうか?

エドガー・ミッチェルがアポロ14号から地球にいる超能力者に向けて行ったテレパシー実験においても「サイ・ミッシング」が登場する(アポロ14号の超能力実験)。この場合は、超能力者の受け取ったテレパシーの内容が送られた内容と比べて当たりの割合が驚くほど低かったが、これを「サイ・ミッシング」だとして超能力の効果が認められたと強引な結論を出している。

ミッチェルの主張はあまりにトンデモなので、よい例ではないかもしれないが、用語集の「下降効果」の項目にも「(ときにはミッシングにもなる)」との記述がある。下降効果は否定派にのみ現れる現象ではないので、ミッシングを起こすのも否定派だけではないようだ。

「超能力を信じている」だけでは、必ずしもポジティブな結果(ヒッティング)になるとは限らないようで、194ページには以下のような微妙なことが書かれてある。

以上のヒツジ・ヤギ効果の検討から、「信じることで能力が出る」などの精神論的な解釈は不適当であり、「実験状況と自分の信念とが合致したかたちでESPが無意識的に発揮される」といった社会心理学的な解釈が妥当とされる。つまり、「ESPは良好な社会的関係に寄与する方向で働く」という、非常に人間くさい特徴があるのだ。

否定派・肯定派を問わず、超能力が発揮できなかった場合は適当な理由をつけて、それを正当化する「独自ルール」が超心理学分野には他にもたくさんある。

転移効果

「透視」については、以下のような記述がある(227ページ)。

誤って別のターゲットを透視してしまうことを「転移効果」と言い、空間的に別のターゲットを当てる現象を「空間的転移」、時間的に別のターゲットを当てる現象を「時間的転移」と呼ぶ。

  • 空間的転移(Displacement):超心理的効果が期待されたターゲットではなく、その周囲のものに対して働く現象。
  • 時間的転移(Time Displacement):超心理的効果が期待されたターゲットではなく、過去や未来の類似したターゲットに対して働く現象。

こんな独自ルールを適用すれば、ハズレた透視をいくらでも「当たり」に変えることができる。とくに今そこにあるものではなくて、過去や未来にあるものを透視してしまうという主張は受け入れがたい。石川氏は『超心理学者にとって、予知は無視できない貴重なテーマだ』(225ページ)としているが、たしかにこういうズルに使えるという点で予知は貴重なのだろう。因果律を無視して実験結果を好きなように解釈できる。

前述のエドガー・ミッチェルによるアポロ14号からのテレパシー実験では、ロケットの発射が40分遅れてしまったため、実験を行う予定の時間よりも「送信」が遅れてしまった。しかし、受信が送信よりも早かったものに関しては、「テレパシー」によるものではなく「予知」によるものだとして、ミッチェルは問題視していない。

超心理学では、こういう御都合主義的な独自ルールに事欠かない。

遅延効果

プリンストン変則工学研究所 (PEAR)では、電子熱雑音による乱数発生装置(REG)を使ったミクロPKの実験を行っていた。この装置は1回の「試行」で0と1を200個(ビット)ランダムに発生させる。そうすると、1試行で発生する1の回数は平均で100回(全体の50%)となるが、これを人間の心の力で100以上(HI)または100以下(LO)になるように念じる。何も念じない場合(BL)も対照実験として記録し、一人の被験者(オペレーター)が1時間かけて1000回の試行を行う。

PEARは12年以上の歳月と108人以上のオペレーターにより1400万回を超える試行を行った。その結果、念力により平均1万ビットにつき数回1が多くなったり少なくなったりすることがわかった。統計的な有意性はあるそうだが、これ自体、非常に小さな効果だ。

ところが、263ページの図9.3に示されているように、何も念じていない場合のBLも、試行回数とともに確率平均よりも大きな値を示すようになり、統計的異常の指標であるp値=0.05に達してしまっていることが判明している。

この実験結果は、PEARのREGが真の乱数発生装置ではなく偏りがあるということを示しているか、REGに異常がないのなら、統計の取り方に何かおかしな点があるということなのだろう。つまり、コントロールが異常な結果を示していて、対照実験になってない。

ところが、これを石川氏は『「遅延効果」かもしれない』と評価している(262ページ)。

  • 遅延効果(Linger/Lag Effect):PK実験で、被験者が念じた後まで(または後に初めて)対象物に効果が現れる現象。

これもまた都合のいい主張で、なぜ時間差が生じるのか合理的な説明はない。石川氏の説明は265ページにある。

こうした被験者が念じたPKの作用が念じた後も続く効果を、「遅延効果」という。懐疑論の観点からは、偶然の変化をあとづけで肯定的に解釈していると批判されるが、超心理学のほかの知見と合わせると示唆的な現象と言える。つまり、緊張を強いられる実験状況よりも、リラックスできる休憩状況で効果が大きく、意識的な意図よりも、無意識的な願望が重要な条件だとすれば、遅延効果がある理由もそれなりに納得できる。

遅延効果があるとすると、どれくらい遅れて効果が現れるのだろう?そばに被験者がいなくても効果が現れるのだろうか?BLの測定はいつもHIの測定のあとに行われていたのであろうか?なかなか納得できる説明ではない。

ここでも、どんな現象でも超能力で説明しようとし、それ以外の説明を選択したがらないという超心理学の態度が見られる。

バチェルダー理論

272ページにケネス・バチェルダー(Kenneth Batcheldor)についての記述がある。バチェルダーは、複数の参加者による交霊会に似た状況設定でマクロPK現象が起きるよう促す研究を行っていた。『その過程で、マクロPK現象が参加者に混乱を与え、さまざまな心理的防衛反応を引き起こすこと、またそれによって、さらなるPK現象が起きにくくなることを見出した。』

1970年頃、バチェルダーは超能力に対する防衛反応として、「保有抵抗」と「目撃抑制」があると指摘したそうな。

  • 保有抵抗(Ownership Resistance):自分が超心理的な能力を持つこと、あるいは持っていると知られることへの心理的抵抗。
  • 目撃抑制(Witness Inhibition):超心理現象を目撃したという経験を否定しようとする傾向、あるいは目撃しないようにする傾向。

つまり、人間誰もが超能力を持ちたくないし、そんなもの見たくもないと思っているというのだ。さらに石川氏はつぎのように説明する。

仮に超能力の無制限な発揮が現実の社会で横行すれば、自他の認識は打ち砕かれ、自分と他者という社会制度上の基盤は失われる。自分の思いどおりに他人の手が動く事態(あるいはその逆)を想像されたい。そうした事態に対する恐怖は、死に対する恐怖に近いものがあるかもしれない。その結果、超能力は存在しないものとして、あるいは特殊な場面にしか起きないかたちに抑制されてしまう。

本当か?死に対する恐怖心も人によって違うだろう。超能力で「思いどおりに他人の手」を動かすことなんてできないわけで、「超能力の無制限な発揮」ってどういう事態を想定しているのだろう?超能力に対する恐怖がそんなに高いとは思えない。超能力者は慎ましやかな恥ずかしがり屋で良心的な人ばかりだというのだろうか?反社会的で自己顕示欲の強い超能力者はいないというのだろうか?

281ページの脚注31には、以下のような記述もある。

一九七八年、ジョン・ランドールは、PKの被験者にカメラを向けたり、電子機器で測定したりしていると現象が出にくいことを指摘し、「超心理現象の逃避性」と表現した。また測定機器や記録装置が停止しているときにかぎって、PK現象が現れる傾向もある。ランドールは、人間の恐怖によって超心理現象が抑圧されたというよりも、超心理現象自体が能動的に逃げるのだ、と比喩的に語る(前掲『超常現象のとらえにくさ』第一八章参照)。

さらに、人類学者のマクレノンも、超心理現象を「隠れる現象」と呼んでおり、これらを総じて「隠蔽現象」と呼ぶこともあるそうな。

  • 隠蔽効果(Hiding Effect):超心理現象が自ら証拠を隠し、社会に露呈しないよう働いているかのように見える傾向。

ここでも、超能力の存在を否定するのではなく、あくまで超能力本来の性質として正確な測定はできないという主張である。測定機器や記録装置が停止しているときにかぎってPK現象が現れるというのは、なかなかすごい主張だ。これでは超能力現象発現の決定的瞬間を捉えることは難しいだろう。

超心理学分野には超能力の存在を証明したい人がいっぱいいるだろうに、超能力自体がここまでシャイとは驚くほかない

バチェルダーの理論は、先述の「超常現象のとらえにくさ」(笠原 敏雄:編集、春秋社、1993/07)に詳しく書かれてあり、その487ページにはつぎのようにある。

一九八〇年頃のバチェルダーの理論は、次のように要約できる。その理論の中核となっているのは、”アーティファクトによる誘発理論”である。バチェルダーによれば、これにはふたつの要素があるという。バチェルダーの言葉を引用すると、「PK(念力)が生起するためには、目標となる状態(浮揚その他)の観念が浮かぶとともに、その現象が起こるという完全な信念を抱く瞬間がなければならない、と仮定する」(一九七九、九〇ページ)。”アーティファクトによる誘発理論”という言葉は、”完全な信念”を誘発する方法を指して用いられる。この方法は、”通常の事象”を”本物”の超常的事象と会席者に思い込ませるためのものである。”通常の事象”は、ふたつのカテゴリー、すなわち「(錯覚や無意識的な筋肉活動〔UMA〕をはじめとする)偶発的アーティファクトと、(詐欺行為や手品をはじめとする)意図的アーティファクト」(ライヒバート、一九七八〔本書第25章〕)とに分けられる。このようにバチェルダーは、”いかさま”や”通常”の事象が”本物”の超常現象と取り違えられると、”本物”の超常現象が発生しやすい力動的状況が醸し出されるとする主張を行っているのである。

つまり、バチェルダーはインチキがあったほうが超能力が発揮されやすいと言っている。超心理学者は「インチキをする超能力者は信用できない」とは思わないのだろうか?

その他の失敗の無効化

「超能力は心の作用が影響するので、通常の科学的手法では解明できない」という主張がよくなされるが、これが本当に「心の作用」なのか?と思われるようなものもある。また場当たり的に思いついたようなもので、効果としての名称がついていない「言い訳」さえある。

ガンツフェルト実験

たとえば、ガンツフェルト実験について、51ページに以下のような記述がある。

ミルトンとワイズマンが共同声明以降のガンツフェルト実験を調査したところ、肯定的な結果が得られていないと報告した。それを精査し、原因をつきとめたのは、ベム、パーマー&ブロートンであり、実験手順に新しい変更を加えたガンツフェルト実験(画像ではなく音楽をターゲットにするなどした特殊な実験)にのみ、有意でない傾向があることを見出した。

しかし、なぜ「実験手順に新しい変更を加えた」実験ではダメなのか、合理的な説明は一切ない。ワイズマンら批判派は、これを「後付けの理由」によるデータの取捨選択とみなしている。つまり、実験後に結果を見て、都合の悪いデータのみ切り捨てているのではないか?と疑われているのだ。 本来ならば、実験に不備のあるものを切り捨て、厳密な実験のみについて統計をとるべきなのだが、「手順に新しい変更を加えた」実験のみを切り捨てるのにあまり合理的な意味はない。

マクモニーグル

また、ジョー・マクモニーグルのリモート・ビューイング(遠隔透視)について、63ページに以下のような記述がある。

こういうと奇妙に聞こえるかもしれないが、遠隔透視をもっとも利用しにくいのは、人探しだと思う。行方不明者の捜索はもともとむずかしいが、それに遠隔透視を役立てるのには、壁がある。(……)逆に、すぐ役立てられるのは鉱業だ。鉱脈を知るのに、遠隔透視は最良の手段といえるだろう。地中の様子が手に取るようにわかり、埋まっている鉱脈の種類も知ることができる。

さらに68ページでは以下のように述べている。

ひとりメイだけが淡々とした調子で「彼は水がターゲットになっているといつも不調なんだよ」と言って、マクモニーグルを呼びに行った。しばらくして部屋に入ってきたマクモニーグルは、残念そうな表情で画面のターゲットをみつめながら、「これは私の苦手なターゲットだ」とつぶやいた。

しかし、なぜ人探しに遠隔透視が利用しにくいのか、なぜ水がターゲットだと不調になるのか、なぜ鉱脈を知るのに遠隔透視は最良の手段なのか、合理的な説明は一切ない。

これらも「心の作用」なのだろうか?

結論

本当に「統計的有意性」があるのなら、こんなおかしな独自ルールを持ち出す必要はないはずである。問題なのは、こうした独自ルールがメタ解析や統計処理にどのような影響を及ぼしているかである。実験者効果、ヒツジ・ヤギ効果、下降効果だとして否定的な結果を排除し、転移効果や遅延効果だとして恣意的に実験結果を選べば、いくらでも統計的に有意な結果が得られるだろう。

実験者効果やヒツジ・ヤギ効果は「信じなければ効果はない」というカルト教団がよく持ち出す論法と同じである。

この本の冒頭「超心理学・超能力に関する七つの誤解」の誤解5「超心理学は一三〇年間の研究にもかかわらず成果がない」に対する反論として、以下のように書かれてある。

→下降効果、ヒツジ・ヤギ効果、実験者効果、隠蔽効果など、心理‐社会的効果が多く判明している。物理的性質は解明されていないが、この分野には十分な人材や資金が投入されてないので当然とも言える。

超能力の存在が確定していないのに、超能力の存在を前提とした「効果」を成果とみなすのもどうかと思うが、その成果というのがどれもここで述べた「独自ルール」ばかりなのがとても悲しい。これでは、否定派は、超心理学130年間の成果は「どうやって失敗をごまかすか」をまとめたものだと考えるだろう。 (なお、人材や資金については「どれくらいあれば十分と言えるのか?」が書かれていないので、ここでは議論しない。当然、肯定派は不十分だと考えるが、否定派はもう十分と考えるかもしれない)

超心理学は、長年本流科学から隔絶し内向化してきたため、カルト化している。下降効果、ヒツジ・ヤギ効果、実験者効果、隠蔽効果などといった独自ルールは、学術的な理論体系というよりはカルト団体の信念体系に類似している。

本流科学には存在しない「独自ルール」が、超心理学と科学を分け隔ている。本流科学を「閉鎖的で頭が固い」と考えるか、「超心理学のやっていることはデタラメだ」と考えるかはその人の主観だろう。しかし、いずれにせよ、「超能力の証拠が見つからないのは、超能力のせいだ」という独自ルールにより、超能力の存在は反証不可能になっている。

つまり、独自ルール自体が肯定派の首も絞めている

独自ルールの正当性を主張するには、超能力の実在を証明しなくてはならないが、そのためにはこの主張自体が障害となる。結局、堂々巡りになり、超能力があるのかないのか、いつまでたってもはっきりせず、超心理学が停滞してしまう原因がここにある。

超心理学はこうした問題を打破する必要があるが、その緒は見えていない。

他分野で確認されない超能力

超能力の存在は、超心理学以外の科学分野から支持されていないという問題もある。

物理法則はすべての自然現象の根幹をなすもので、どんな科学分野もそれは無視できないし、日常生活のあらゆる場面でもその影響がある。

量子力学はあらゆる原子・分子の物理的性質に関与するし、電磁気学なくしては現代の通信・情報技術は有り得ない。相対論でさえもGPSの位置決定に関与しているし、誰も重力に逆らって宙に浮くことはできない。

ところが、今のところ、どの科学分野も超能力を必要としていない。つまり、超能力の存在を仮定しないと説明できない現象が超心理学以外の科学分野でみつかっていない。

もし、超能力が実在するとすれば、生物進化に大きな影響をおよぼしていたかもしれない。透視や予知は天敵から身を守るのに有効だろう。もしテレパシーが可能なら、音声によるコミュニケーションは必要ない。しかし、進化の過程でそうした超能力を発展させた生物はいない。(SFの世界にはたくさんいるが)

そもそも進化自体が確率課程なので、運がいい生物が生き残ってきたといえる。それならば、確率を操作できるミクロPKを有した生物が進化に有利なはずなので、世界はミクロPKを持った生物であふれていてもいいはずだ。しかし、現実はそうなっていない。

超能力はスポーツ、ゲーム、ギャンブルなどの競技にも有効なはずだが、その影響は見当たらない。野球で、テレパシーや予知でピッチャーがつぎに投げる球種を予想できたら、バッターには便利だろうが、そういうプロ野球選手がいるという話は聞いたことがない。透視でカードゲームに勝ったり、ギャンブルで大儲けしたという話もない。予知能力のおかげで、人間がチェスや将棋でコンピュータに勝ったという話も聞かない。

現代社会はパソコンやスマートフォンのような精密電子機器で溢れかえっているが、人間の心の作用でそれらの機器が異常をきたしたという話も聞かない。念力が実在するのなら、それこそロバート・パークが言うように、その力を精密測定すればいいだけの話だが、念力が測定されたことはない。

物理学はけっこう寛容な学問で、未知の力についても色々と探索している。たとえば、「第5の力」(Fifth force)について観測が試みられている。現在までに知られている物理的な力は4つあり、それらは(1)クォークを結合してハドロンをつくり、陽子、中性子から原子核を構成する強い力、(2)電磁力、(3)原子核のβ崩壊などを起こす弱い力、(4)重力、である。第5の力は、強さは重力と同程度できわめて弱く、到達距離は巨視的なスケールをもつとされている。

実験的には、たとえば以下のような論文がある。

日本においても、「右回りに回転しているコマは軽くなる」という主張が検証されたことがある。

これを言いだしたのは東北大学工学部の早坂秀雄氏であり、以下の論文を発表した。

これについて日本の計量研究所が厳密な反証実験を行っており、結果は否定的なものだった。この例は、「科学は奇抜なアイディアを歓迎するが、その検証は極めて懐疑的に行う」ということを示している。

第5の力と右回りのコマの実験に関しては以下の本も参照。

こうした精密測定を応用すれば、念力の検出も可能だろうと考えられるが、今までにそのような報告はない。つまり、マクロPKのような強力な超能力は存在しないということが示唆され、あったとしてもその効果は非常に弱く、日常生活にほとんど影響はない。物理現象に対する影響は観測されたことはなく、物理法則が捻じ曲げられたこともない。

超心理学の言うように、ときどき突発的に強い超能力が発揮されることもあるのかもしれないが、そんなことは滅多に起きないので、奇跡を期待するのと同じことだろう。

実験者効果のようなものが本当にあるのだとしたら、スポーツ、ゲーム、仕事など他人と競合関係にある場合は、互いに超能力が相殺し合って、たいした効果は期待できないかもしれない。

超心理学の行っている実験でも、超能力の効果はせいぜい「統計的に有意」になる程度だ。ただし、超心理学には「超能力は存在する」という強いバイアスが見受けられるので、その統計的有意性も彼らが言うより実際はさらに小さいのだろう。しかし、有意性がゼロであることを証明できるかどうかはわからない。人間の認識能力には限界があるので、世界の全てを正しく認識することはできないと考えられるが、もしかしたら物理世界そのものも完璧なものではなく、なんらかの微小な揺らぎが存在する可能性は否定できないかもしれない。

しかし、むしろ超心理学の長年の研究の結果を客観的に見ると、この宇宙では超能力の力は極めて弱いということがわかってきたと言えるのではないか?近似的にこの世界に超能力は存在しないと言ってもいい程度だろう。超心理学最大の功績は、「物理世界はかなり堅牢なもので、人間の意思や精神のみではなかなか思い通りにならない」ということを証明したことだと考えられるが、残念なことに、どうも超心理学者はそうは思っていないようだ。

いずれにせよ、実際の効果は非常に小さく数多くの測定が必要なのに、きわめて有意性が高いと主張し、批判されると「超能力の確実な証拠が見つからないのは超能力のせいだ」と反証不可能な言い逃れをし、しかもテレパシーも透視も予知もサイコキネシスも可能だと夢のような主張をする。よって、超心理学は病的科学の特徴を示している

この書評をめぐるASIOS内部の確執

これについては、ASIOSを参照

その他の書評

 予知や透視術といった超能力を持っていたら何をしようか。バカげた妄想だと一蹴されるだろうか。この問題を科学的に扱う学問がある。超心理学――これが本書のテーマだ。

 

 注意して欲しい。心霊や臨死体験、UFOなどの超常現象は超心理学の対象ではない。専門家は慎重だ。すべてを肯定しているわけない。

え?超心理学はもともと心霊研究として始まったのでは?臨死体験ていうのは、死にかけた人が見た夢みたいなものについての記述であって、とくに超常現象でもないと思うのだが… UFOも未確認飛行物体という本来の意味ではなくて「宇宙人の乗り物」という意味で使ってるのかな?(なお、「宇宙人が地球に来たことはない」ということを証明するのは不可能である。なぜなら、今は来てないかもしれなが、10万年前や1億年前に1度くらいは来たことがあるかもしれないからだ)

 「科学的に説明できないものは信用しない」という態度は残念だ。「信用しない」という信念自体が非科学的だからだ。

超心理学がなぜ信用できないかというと、ここで色々と述べてきたように、病的科学の兆候があるからである。特に「実験者効果」のようなものを科学として認めなければいけない合理的な理由はない。「水の記憶」、「水伝」、「ホメオパシー」、「EM菌」、「波動」などといった疑似科学も類似の論法を使うので、超心理学も科学であるとは言い切れない理由がある。

石川幹人氏

石川氏に対する評価については以下のリンクも参照。

リカタンの原稿には「超心理学は典型的な疑似科学」と明記しました。ニセ科学特集に石川幹人氏が執筆すると知り、いったんは僕が降りることも考えましたが、最終的に執筆し、ただし上記のことを明記しました。ニセ科学特集に石川氏の原稿を掲載するのは編集側の重大な判断ミスだと考えています

僕自身は石川幹人氏を疑似科学者と判断しています。三度ほど直接議論したことがありますが、彼は「超心理学が主張するのは物理現象なので、物理学の法則に反するものは否定される」という簡単な話を理解できませんでした。石川氏は科学の方法論を理解していないと思いますので、ニセ科学批判は無理です