書評:「量子の宇宙でからみあう心たち―超能力研究最前線」
- 「Entangled Minds: Extrasensory Experiences in a Quantum Reality」 Dean Radin, Paraview Pocket Books (2006/4/25)
- 「量子の宇宙でからみあう心たち―超能力研究最前線」 ディーン ラディン (著), 竹内 薫 (監修), 石川 幹人 (翻訳) 、徳間書店、2007年8月
上記のディーン・ラディンの著書の日本語訳が、明治大学情報コミュニケーション学部の石川幹人教授の翻訳で出版された。
日本語版で省略されてしまった部分や参考文献に関しては、石川氏自身が「メタ超心理学研究室」の「ラディン『量子の宇宙でからみあう心たち――超能力研究最前線』訳者注」で公開している。
この本にはさまざまなトンデモない主張が書かれてあり、そういったものを排除できなければ、超心理学が本流科学に受け入れられることはないだろう。ところが、ラディンや石川氏を含む超心理学界全体がそのことをちっとも理解していないのが、大きな障害となっている。
なお、この本のあちこちにラディンの懐疑論者に対する怨みつらみが書かれてあり、ラディンが懐疑論者を心底きらっていることがわかる。
また、上記のamazon.co.jpの「量子の宇宙でからみあう心たち」とamazon.comの「Entangled Minds」を比べてみると、日本では6件しかレビューが付いていないのに対し、英語版は57件も付いている。日本での最も参考になったレビューは、20人中19人が「参考になった」と投票しているが、英語版は244人中223人が「helpful」としている(2012/11/15)。このことからも、超心理学に対する日本人の関心の低さがわかる。
Robert T. Carrollの書評
「Skeptic's Dictionary」のRobert T. Carrollによる書評は以下のリンクを参照。
- 「Book Review: Entangled Minds: Extrasensory Experiences in a Quantum Reality」 by Robert T. Carroll, February 22, 2009, Skeptic's Dictionary
マクモニーグルの描いた絵
一番象徴的なのは、「超能力捜査官」として日本のテレビにも登場するジョー・マクモニーグルの描いた絵が、翻訳版では省略されていることだろう。その絵のうちのひとつは、超能力研究の応用技術の1つである「サイ・スイッチ」のプロトタイプのスケッチだ。これは人間の意志を増幅し、遠くからそれを感知する装置で、近い未来に実現されるものだそうだ。(つまりテレパシーの送受信機?)
石川氏の「訳者注」のサイトを見てみると以下のように書かれてある。
[386]
原著(292−293頁)には、マクモニーグルによる粒子加速器の遠隔透視の事例が描写され、そのとき書いた画がきれいにトレースされて載っているが、割愛した。また原著(294頁)には、ラディンがマクモニーグルに依頼して未来透視した、将来の「超心理スイッチ」とされる、ごっつい機械の画が、これもきれいにトレースされて載っているが、割愛した。
つまり、これはマクモニーグルが未来を透視して描いたものなのである。「バカバカしい」と思う人もいるかもしれないが、このようなことを躊躇なしに書くということから、ラディンが本気で純粋に超能力の存在を信じているということがわかる。もちろん、もしこの絵の「サイ・スイッチ」が本当に実現されるようなことになれば、誰も超能力の存在を疑わなくなるであろう。しかし、現実はそこまで至っていない。
また、もう1つの絵は「粒子加速器」を遠隔視したものだそうだ。その絵(Fig. 14-1)は、球状の物体(直径約15フィート、約4.6メートル)にパイプ状のものがいっぱい付いたウニ状の形をしているが、実物との比較はされていないので、どれだけ似ているのかはわからない。その所在地も北カルフォルニアのシリコンバレー周辺で車で1時間程度のところとしか書かれていないので、検索して比較することもできない。
シリコンバレー周辺では、スタンフォード大学の加速器センター(SLAC National Accelerator Laboratory)がある。こちらには長さ約3kmの線形加速器(ウィキの写真)と円形加速器(Stanford Synchrotron Radiation Lightsource)があるようだが、どちらもマクモ二―グルの絵には似ていない。この絵は、これらの一部を描いたものなのか、それとも別の加速器なのだろうか?
「超心理現象で動作する電子スイッチ」の特許が実在する?
1998年9月にプリンストン変則工学研究所 (PEAR)の研究成果が米国特許(5830064番)になったことが述べられ、この特許は「超心理現象で動作する電子スイッチ」(p.120)であり、「超心理技術は、思われているほど非現実的な話ではない」(p.386)としている。この特許の題名は「全体として偶然の期待を上回る結果を区別し、それによって結果を制御する機具と方法」である。
- 「Apparatus and method for distinguishing events which collectively exceed chance expectations and thereby controlling an output」: 「United States Patent 5830064」もしくは、「US Patent Issued on November 3, 1998, Patent Storm」を参照。
説明を読んでみると、PEARで行われていたREGの研究をそのまま特許にしたようで、「数値を発生させ、その値が偶然の確率からずれるかどうか検出する方法と機具」とのこと。PEARの研究によれば、人間の心が乱数発生装置に影響するとしても、それは1万回に数回のことなので、今のところ、これはスイッチにはなっていないようだ。
超常現象に対する極めて甘い評価
ラディン氏は「物理的にありえそうもないこと」に対して極めて肝要だ。超常現象に対しても、とても懐疑的とは言えない態度をとっている。また、懐疑論者からの批判や問題点の指摘を無視する傾向にある。
ホメオパシー
98ページに『今受けいれられつつある伝統的医療にも、迷信として忘れられかけたものが多い。』という記述があるが、これは省略されたもので、原著の文章(原著55ページ)を翻訳すると以下のようなものになる。
驚異的な合成医薬品を早急に承認する近代の流れの中で、特に植物ハーブ、鍼灸、そして多分ホメオパシーといった代替医療について高まる感心は、有効な伝統的医療が早まって迷信として捨て去られようとしていたかもしれないことを示唆している。
ラディンは「水伝」について実験していることからも推測されるように、ホメオパシーに対しても親和性があるのかもしれない。
オカルト化学
たとえば、p.112においては、「原子の霊視」を行ったとする「オカルト化学」を紹介しており、これによってネオンの同位体が発見されたとしている。いったい原子を霊視するとはどういうことなのだろう?さっぱり意味がわからないし、本気でそんなことを言っているのであろうか?
原子の霊視については以下のリンクを参照。
- 「Direct Observation of Atoms through Clairvoyance」 J. Michael McBride、Department of Chemistry, Yale University、last modified 12/6/99
ダニエル・ダングラス・ホーム
多くの目撃者の前で空中浮遊などの派手な超常現象を起こすとして、世界的に有名だった霊媒ダニエル・ダングラス・ホーム(Daniel Dunglas Home, 1833-1886)については、「一度もインチキを指摘されなかった」と紹介している(106ページ、原著 p.62)が、「超常現象の謎解き」の「心霊現象・用語集解説」の「霊媒」の項目には以下のように書かれてある。
霊媒 (Medium)
霊との交信で仲介役となる人物のこと。英語では「Medium」(ミディアム)と呼ぶ。
1848年にフォックス姉妹が起こしたハイズビル事件以来、数多くの霊媒が出現した。その中でもダニエル・ダングラス・ホームなどは、「一度もトリックが暴かれたことがない霊媒」と言われ、よく引き合いに出されるが、実は1860年にフランスでトリックを暴かれており、このときは国外退去を命じられている。
今では誰も空中浮遊のような派手なパフォーマンスを厳密な実験条件下では行えないので、そもそも再現性がない。霊媒という職業自体が今やほとんど消滅してしまった。ウィキペディアによるとホーム氏は以下のような現象も起こしたそうだ。
物理的現象は非常に数多く報告され、スケールが大きい。空中浮遊、身長が30センチ近くも伸びること(脚や腕などもそれぞれ伸びた)、真っ赤に燃える石炭で顔を洗ってみせたり、同席した者にも同じように触れさせること、テーブルやソファなどの重い家具が動くこと、叩音やさまざまな音、匂い、楽器の演奏、手が現れて出席者と握手したり品物を運んだり楽器を演奏したりとさまざまな動作をすること、光や火球が飛ぶこと、部屋が地震のように激しく振動すること、霊の全身が物質化して出席者に見られること、入神して(知らない言語でも)喋ること、霊の姿を見て会話すること、等々である。
もしも心霊研究の本来の目的がこういうすさまじい超常現象の存在を証明することであったのなら、現代の超心理学はそれにことごとく失敗している。失敗した挙句に残っているのが「統計的有意性」だけだというのなら、それががなくなればもう終わりなので、それに必死にしがみついているという見方もできる。
アポロ14号のESP実験
ジェイムズ・ランディらに強く批判されている宇宙飛行士エドガー・ミッチェルによるアポロ14号の超能力実験についても、、ラディンは「成功をおさめた」(118ページ, 原著 p.76)と評価している。
なお、ミッチェルは、ラディンが主任研究員を務めているIONS(The Institute of Noetic Sciences)を1973年に設立した人物でもある。
リモート・ビューイング
「リモート・ビューイング」に関するラッセル・ターグ(Russell Targ)とハロルド・パソフ(Harold E. Puthoff)のネイチャー誌論文がいかに注意深く検証され論破されていったかは、「リモート・ビューイング(遠隔視)」に書いたとおりである。
しかし、これに対してもラディンは「批判を詳細に検討すると、報告された結果を退けるには十分でないことが判明した」(141ページ、原著95ページ)と述べるに留まり、デイビッド・マークスとリチャード・カマンらによる検証を引用すらしていない。
たしかに、懐疑論者による批判をまるっきり無視するのであれば、超心理学は無敵だ。
ミミズの予知能力
ミミズに機械的振動を与えて脅かしてみたけど、ミミズの予知能力は統計的な有意性には至らなかった。(「ミミズの予感」232〜234ページ) なお、ミミズの予感をどう測定したか、詳しい記述はない。人間の皮膚電気伝導度を測るのと同じようなことをしても、それで意味があるのだろうか?
そもそも、人間の脳に相当する器官を持たないミミズに予知能力があるかどうか調べようというのは、とてつもなく突拍子もない発想である。普通の人なら、そんな実験を実行しようとは思わないだろう。この実験を修士論文のテーマとして行ったテキサス大学の大学院生チェスター・ワイルドリー氏は、「ペンローズの量子脳仮説」が正しいとすると、ごく小さな組織でも意識が発生するだろうと考えたようだ。(だったら、超能力の研究をする前に、ミミズに意識があるか確かめておかないといけませんね。でないと、超能力の実験は無意味になる) なお、この話には引用文献がなく、論文発表はされなかったようだ(修士論文のみ?)。
培養細胞に対する浄霊の効果
浄霊すると細胞(人間の脳に多く見られる星状細胞の培養試料)の増殖度が上がるらしい。邦訳本のp.253に「この差がすごい」という挿絵付きでグラフが示されているが、実際の差はかなり小さい。(「ヒーリングの場」、249〜258ページ)
これもなかなかすごい発想で、霊に呪われたら細胞の一個一個までもが呪われるというのだろうか?なお、原著を見てみると、まんま「Johrei」と書かれてあり、「Johrei」とは日本の『岡田茂吉(一八八二〜一九五五)が創始した手かざしによる霊魂浄化の実践』だそうな。なお、岡田茂吉は世界救世教の創始者であり、EM菌とも関連がある。
さらに、249ページには『気功、レイキ(霊気、Reiki)、手当療法』について、『治療時のフィールド意識実験で乱数の有意な変化がある』としており、細胞に対する浄霊効果の実験と並行して、電子雑音や放射線検出に基づく乱数発生装置(RNG)の観測実験も行っている。その結果、実験開始後3日目の朝にRNGに大きな偏りが見られたとのこと(なぜ3日目?)。ラディンは次のように述べている(255ページ)。
この実験は、ある種の注意集中が、生物体と無機物の両方に対して因果的な「影響を与えている」可能性を示唆している。
さらに、『四人の浄霊家が一緒にシールドルームに入って瞑想し、お互いに施術を行って、場のヒーリング効果を高める作業をした』(252ページ)という素人にはよくわからない記述がある。250ページを見ると以下のような説明がある。
またこの実験デザインでは、同じ場所でヒーリングを繰りかえすことで、物理的な場の特性が変化する可能性も考えに入れている。場自体がヒーリングの効果を持つかもしれないのだ。ルルドの泉などの神聖な場所で報告されるヒーリング効果や、幽霊屋敷などの特定の場所で反復して起きる現象も関連するかもしれない。
つまり、ヒーリングが繰り返し行われた場所にも、なんらかの超心理学的効果があるというのだ。しかし、これはいったいどういう超能力の効果なのだろう?ESPなのかPKなのか?浄霊が細胞だけでなく無機物のRNGにも影響をおよぼすという主張自体が驚くべきものだが、さらにヒーリングが行われた場所にまで影響をおよぼすというのは、あまりに突拍子もない。いったいその場の物理的性質のなにが変化したのか、まったく実体が不明である。これでは超能力ではなく魔法の研究をしているのではないか?とさえ思えてくる。石川氏がなぜラディンを高く評価しているのかその理由がまったくわからない。
そもそもレイキとは、ある種の「エネルギー」を用いた民間療法(心霊療法?)であるが、この「エネルギー」には定量的に測定できる実体はなく、科学的根拠もない。もちろん、レイキの治療効果も実証されていない。
- 「Effects of reiki in clinical practice: a systematic review of randomised clinical trials」 Lee MS, Pittler MH, Ernst E., Int J Clin Pract. 2008 Jun;62(6):947-54
このように極めて胡散臭い療法を肯定的に取り上げるのは問題である。「Quackwatch」が、ラディンの所属するIONS(純粋理性研究所)を「信用できないウェブサイト」のリストに含めているのは当然のことである。
超能力は距離に依存する?
さらにラディンは浄霊のRNGに対する効果について、距離依存性があると述べている。257ページの図11−3には10000マイル(地球の裏側)まで離れると、浄霊の効果による偏差の和が半分以下になることが示されている(データのばらつきは大きいが)。なお、原著192ページの図は100マイルまでであり、なぜか石川氏の翻訳版の図は距離がその自乗になっている。(浄霊の効果が地球の裏側まで届くか確認するのは、本質的にバカバカしい話である)
また、哲学者フィオナ・スタインカンプがラインの遠隔ESPカード実験をメタ分析した結果、遠距離での効果は小さくなったという図11−4(258ページ)も示してある。この図では500マイル離れると、効果サイズは5分の1程度になり、7500マイルも離れるとゼロになる様子が示されている。
もし超能力が距離に依存するのならば、ラディン自身がやっている実験とも矛盾してしまう。「水は答えを知っている」の項目でも述べたように、ラディンは日本やヨーロッパから発せられた念がカルフォルニアにおかれたペットボトル中の水に届くと主張しているのである。
よって、ラディンは以下のようななんだか曖昧な結論を述べている(256ページ)。
超心理学のひとつの特徴は、時空間上の「いまここ」に必ずしも縛られないことである。しかしながら一方で、このような実験のように、超心理学は距離から完全に独立しているわけではないという証拠もある。
要するに、リモート・ビューイングなどは「距離に依存」してしまうと困るので、こういったどっちつかずのことを言って結論をごまかしているということである。
空中浮遊やテレポーテーション
360ページでは、空中浮遊と瞬間移動(テレポーテーション)について以下のように述べている。
原理的には、物体浮揚や瞬間移動などの大規模な効果も可能とみられますが、そのような現象の実験室での報告はほとんどありません。その現象を安定して再現する方法はたぶん、極小の影響で大きな変化が起きる、エネルギーの平衡状態に働きかけるようにすることです。
そして、空中浮遊の原理として次のような説明が続く。
たとえば、ガラス管の片側に風船をつけて大きく膨らませ、他方の口をそっとコルクでふさいでおきます。心が、風船の気圧のバランスを片寄らせることができれば、コルクが勢いよく飛び出していくことでしょう。
しかし、これは原著に書かれてあることとは異なっている。原著270ページに書かれてあることを翻訳すると、以下のようになる。
もし、心がソーダ缶の下の大気圧をほんの少し下げることができるならば、飛行機を飛ばすことのできる空気の圧力差と同じ原理で、その圧力差は平衡に戻るまでに缶を数十フィート打ち上げるだろう。同じように、心が、空気圧のエネルギーとだいたい同程度に、ソーダ缶の下の量子ゼロ・ポイント・フィールドのエネルギー平衡を瞬間的に変えることができれば、再び平衡状態に戻るまでに、缶を軌道に打ち上げるかもしれない。
もう何を言っているのかよくわからないが、どうも、ラディンが暴走し始めると、翻訳者の石川氏がフィルターをかけて、穏やかな表現に変えているようである。(ここで、ソーダ缶とは炭酸飲料の缶のことだろう。また、原著では「a few dozen feet」となっているが、これを「数十フィート」と訳した。また、ゼロ・ポイント・フィールドも参照)
テレポーテーションができた超能力者などいないし、基本的に可能でもない。ユリ・ゲラーはニューヨークからブラジルまでテレポーテーション(みたいなことを)した、と主張したことはある。空中浮遊については、「超越瞑想」(TM)の修行者が座禅を組んだままピョンピョン飛び跳ねている程度である。(初期のオウム真理教も同様なことをしていた) どちらも空想の域を出ないものであり、このような議論を展開したところで超心理学の信用を損ねるだけである。
超心理学の「独自ルール」
書評:「超心理学 封印された超常現象の科学」でも指摘したように、超心理学には超心理学内部でのみ通用する独自ルールが存在し、ラディンの著書でもそれらが登場する。
ミッシング
- ミッシング(Missing):超心理学実験で、偶然平均より有意に低い得点を取る傾向で、ESPを発揮して正しいターゲットを意識下で知ったうえで、別なコールをしたと解釈されている。
この独自ルールにより、平均よりも低い点数が出ても超心理学では超能力の証拠にされてしまう。何回か試行を繰り返したあと、それがちょうど平均になるよりも、ちょっとだけ高くなったり低くなったりする場合のほうが多いだろう。低い場合をかき集めて「これも超能力の証拠でござい」と言うのは正当な主張なのだろうか?
第3章において、62ページの「テロの予兆」から73ページの「さらなるテロの予兆」まで、9.11アメリカ同時多発テロ事件について予知があったかどうか検証している。もちろん事前に9.11テロが予知された事実などないが、62ページから70ページにかけて、テロの予兆と思われる事例が報告されている。
ところが、「人間集団としての予兆」(70〜73ページ)では、誰でも参加できるホームページを使った予知能力テストの実験データの中からテロに関連した概念がどれくらいあるか、ラディンが調べてみると、「驚くべき」ことにテロ当日がテロ関連語の出現率が3年間のうちでもっとも低かったそうだ(図3−1、71ページ)。
ラディンはこのような現象が起こる原因として『テロが近づくにつれて多くの人々が無意識に問題を感知しはじめる。ところが、その自覚を合理化する根拠がないので、抑圧してしまう』という可能性を挙げている。つまり、予知とは逆の結果が出たが、これも(ミッシングという)超能力の証拠だという論法である。
さらに「さらなるテロの予兆」(73〜75ページ)では、もしテロの予知による抑圧効果があるとすると、他の超能力テストにもその影響があるのではないかとラディンは考え、オンラインテストのなかのカード当てゲームについて調べてみたそうだ(オンラインゲームはいくつあるのだろうか?なぜカード当てゲームだけ調べる。残りは「お蔵入り」したのか?)。すると、『スコアの大きな低下がテロの前に見られた』とのこと(図3−1、75ページ)。
以上のように超心理学では、ばらつきの多いデータについて、偶然平均よりも高い実験結果は超能力が存在する当然の証拠とされると同時に、平均よりも低いデータについても「ミッシング」だとして超能力の証拠にされてしまう傾向がある。
なお、予知についてラディンは330ページで『ミリ秒から数か月以上までの未来が、前もって感知される』としているが、制御された実験条件下で、数か月以上前から予知ができたという再現性のある結果があるのだろうか?少なくともこの本にそういった事例はなかった。予言がいかに当たらないかは以下の文献を参照。
- 「検証 予言はどこまで当たるのか」 ASIOS、菊池 聡、文芸社 (2012/10/3)
357ページにも、ミッシング(正しいターゲットを有意に避ける傾向)や、転移(指定ターゲットではなく、時空間上近接した別のものを正確に描写すること)や、下降効果(繰りかえしているうちに効果が減少する傾向)が登場する。(転移効果については、「書評:「超心理学 封印された超常現象の科学」」を参照。下降効果についてはこのあとの項で説明する)
ラディンはミッシングが起こる原因として以下のように述べている。
強い超心理効果が認められて広く報告されれば、その知見はきっと、超心理効果を排除したい人々の集合的反応(社会的な「免疫反応」)を招くことでしょう。それによって、超心理効果の維持は、きわめて難しくなります。
つまり、「ミッシングの効果は、超心理体験を拒絶したい意識から起こる」とのこと。さらに、超心理学実験の被験者が否定論者だと、否定論者は『超心理の証拠を目にしたくないですから、その願望にあわせたかたちで、偶然期待値を下まわる成績を安定してあげてしまうのです』とのこと。
世の中がそんなに否定論者や超心理体験を拒絶したい人ばかりとは驚きである。懐疑派の中にも超能力が実在するなら見てみたいと思う人物はいくらでもいるだろうし、超能力が事実なら、野心的な科学者はすぐさまその研究に飛びつくだろう。ラディンのように超能力の存在を証明したい人もいっぱいいるだろうに、彼らの思いはなかなか伝わらないようだ。
さて、ここで問題になるのは、ミッシングだと思われる事例を超心理学者が統計的にどう処理しているかだ。ラディンもミッシングをどうメタ解析に取り入れているのか、その詳細を述べていない。もし、統計平均より低いものをミッシングとして排除しているとするならば、当然のことだが、必然的に有意な結果が得られるだろう。
下降効果
- 下降効果(Decline Effect):一連の実験セッションの後半に至るに従って、超心理実験のスコアが低下し偶然平均に近くなる(ときにはミッシングにもなる)傾向。
「テレパシー」(126〜134ページ)では、J. B. ラインの行ったESP(ゼナー)カードの実験について述べられている。これによると、『ラインの時代でもっとも頻繁に参照される個別の実験は、ピアーズ=プラットの遠隔テレパシー実験』だそうだ(デューク大学学生のヒューバート・ピアーズ・ジュニアが受信者で、ラインの同僚のガイザー・プラットが送信者)。ピアースはこの実験で、1850試行を行い、偶然に期待される正答は370(20%)のところを、558(約30%)という驚異的な数の正答を得た。
ところが、『この実験終了後数か月経ったとき、ピアーズは突然、それまで二年間維持してきた高いスコアを示す能力を失った』らしい。その原因としてラディンは『能力低下のもっとも有力な理由は、興味の喪失であろう』と述べている。なんでも『ESPカードの実験はおそろしく退屈で、カードの推測を続けるよりも目を棒で突いていたほうがいいと思うくらいである』そうな。
ピアーズが本当に「目を棒で突きたい」と思ったかどうかは知らないが、「能力を突然失った」というのは解せない。二年間も続けていたのだから、だんだん飽きてきて徐々に能力を失ってもいいのではないか?また、なぜ他の「退屈でない」実験に切り替えなかったのだろう?
石川幹人氏によれば、テレパシーも透視も予知も同じ超能力だそうなので、テレパシーの実験ばかりではなく、透視や予知の実験もやればよかったのに、非常に残念なことに、なぜかピアースはその他の実験はやっていないようである。
心理学者のマーク・ハンセルは、ピアーズが部屋から抜け出してカードを覗き見していたのではないか?と推理している。もちろんハンセルの推理は間違っているかもしれないが、ピアーズが最初の二年間使っていた何らかのトリックが、その後、実験条件が変わってしまったために使えなくなった可能性も否定できない。そもそも、当初異常な値の出た実験でも、実験を繰り返せば、徐々に実際の平均値に近づいていくものである。しかし、超心理学者は決してそのような考え方はしないようだ。
この本で「下降効果」は「減衰効果」(177〜179ページ)と紹介されており、178ページには以下のような記述がある。
超心理学の研究ではとくに減衰効果が注目される。というのは、新しい実験が最初よい結果を示しても、他の研究者が追試している間に消えてしまうことがよくあるからである。考察した当の研究者でさえも再現できないこともある。このような減衰効果は、超心理学研究に特有の現象なのだろうか。他の分野では起きないのだろうか。減衰効果が超心理に特有だとなると、超心理実験に特別なうさん臭いことがあると疑われかねない。
もちろん、他の科学分野でも「減衰効果」は存在する。一般に、科学的な発見は検証が進むと発見当初よりもその効果が弱まって、当初言われていたほどすごくないことが判明することが多い。なぜなら、どんな科学論文でも著者の主観(バイアス)が入り込んでいるからである。
科学研究において、バイアスは避けられない問題であり、実際の効果はこれを差し引いたものとなる。バイアスを差し引いた結果、現象が消滅すれば(つまり、再現性がなければ)、その現象は存在しないと通常科学では評価される。そういった例は科学史上多々あり、たとえば、N線、ポリウォーター、光速よりも速いニュートリノなどがある。また、「原発の安全神話」も強いバイアスの例である。
ところが、超心理学では現象自体が消えてしまっても、それは超能力独自の特徴であり、超能力はあくまで存在すると言い張るので、超心理学は本流科学から胡散臭いと思われているのである。もし本当に確固たる「統計的有意性」があるというのなら、こんな話を持ち出す必要はないわけで、なぜ超心理学者はそんなに「下降効果」にこだわるのか、その理由がよくわからない。
実験者効果
「実験者効果」について、ラディンは377ページと379ページで以下のように述べている。
外科医、法定弁護士、会社経営者などの職務上の成功率が、人によってかなり差があるのはなぜでしょうか。成功率の高い人々は、才能に恵まれ、かなりの努力をして、成功動機も高いのではないでしょうか。
疑いをもって冷笑的な態度になりやすい懐疑論者がよい結果を残せず、暖かみがあって熱心に接する肯定者がよい結果を残すのは、不思議でもなんでもありません。
ラディンの表現だと、実験者効果はただのバイアスか実験者の主観のように読める。否定派と肯定派、両者の主観やバイアスをできるだけ排除し、できるだけ同様な条件で実験した結果が、本物の効果となるはずである。ところが、石川氏の著書「超心理学 封印された超常現象の科学」(紀伊國屋書店 、2012/8/29)によると、実験者効果は以下のように説明されている。
- 実験者効果(Experimenter Effect):実験者が実験結果に与える影響で、一般には実験対象(被験者など)の取り扱い方の問題を指すが、超心理実験では実験者が超心理的能力を発揮して結果に影響を及ぼすことを主に指す。
つまり、否定派が実験して否定的な結果が出たとしても、それも超能力の効果だというのだ。疑似科学の多くが同様な論法を展開する。つまり、「信じてないと効果がない」というわけだ。
再現性がないことに超心理学者も気付いている
1909年、ハーバード大学の心理学者ウィリアム・ジェームズは以下のように述べたそうだ(310ページ)。
幽霊や千里眼、そして霊魂からのお告げは、始終存在しているように見え、常識ではけっして片づけられないのだけれども、それらは同時に、どんなにがんばっても確実なものと示すことができないのである。
コロンビア大学の心理学者ガードナー・マーフィーは、1922年に超心理学研究を始めたころをふり返り、以下のように述べたそうだ。
ところが、ラディンによると、『マーフィは、超心理学がそれほど単純ではないことを、後年思い知らされたのである』とのこと。実験的に統制した条件下でのテレパシー検出は比較的容易だろうと思っていた。というのは、それまでは、まったく未熟で幼稚な経験不足の方法のために、データがばらついて不規則になっているだけだ、と考えていたためである
2001年、プリンストン大学のロバート・ジャンとブレンダ・ダンはPEARの研究総括の結論で以下のように述べたそうだ。
多くの実験を終えて私たちは、不規則で説明がつきそうにもない、それでいて無視もできない大量データをつきつけられた。それらは、いたずれっぽく、超心理学の基本性質は永遠に理解できないぞ、と宣言しているのである。
ラディンによると、超心理学者は長年研究に取り組んでいると、『超心理が本当に存在すると確信しながらも、同時に超心理現象は大いなる謎だと理解している、そう認めるようになる』らしい。超心理学者が、「幽霊や千里眼、そして霊魂からのお告げ」と同様に、超心理現象も存在しないと認めることはなさそうだ。しかし、彼らも超心理現象に再現性がないことは自覚しているようだ。
サイコロが形を変える!?
この本には、念力によるスプーン曲げの話は登場しない。その代わり、人間は微力ながらも念力によってサイコロの出る目に影響を与えることができるとのこと。しかし、たとえPK(サイコキネシス)が実在したとしても、好きなサイコロの目を出すというのは相当困難だろう。単純な力学的操作のみでは、どんな目が出るか予想できないからだ。
なぜそのようなことが可能かという原理について、ラディンは『たとえば、サイコロが一瞬かたちを変えて特定の目が出やすくなるような現象なのである』(212ページ、原著152ページ)と述べている。もし本気でサイコロが形を変えると思っているのなら、なんらかの方法で精密測定して、実際にサイコロがどう変形しているか示すべきだろう。しかし、さすがにそれはできないようで、以下のような脚注をつけている。
特定の目の面積が小さく、裏側の面積が大きくなるとそれが実現できる。ただし、これは比喩であり、本当に物理的に形状変化が起きているわけではなく、「事前確率」が変化することを意味している。
しかし、これもなぜ「事前確率が変化するのか」の説明にはなっていない。ラディンの主張をまとめると「力学的作用なしに確率のみを変化させる能力」ということになるようだ。しかし、そんな奇妙な効果がそもそも可能なのかわからないし、「アドホックな仮説」(Ad hoc hypothesis)のように聞こえる。
因果律的に考えると、原因があって結果が生じる。確率も原因から導出される数字であって、確率が原因なわけではない。よって、「事前確率」の実体が意味不明である。
たとえば、サイコロの目はそれぞれ6分の1の確率で出ると予想される。なぜなら、サイコロは六面体だからだ。しかし、実際に振ってみないと本当に6分の1になるかどうかはわからない。なぜなら、サイコロは均一ではなく偏りがあるからだ。また、サイコロの振り方にもクセがあるかもしれない。完全に均一なサイコロを作り、完璧に偏りのない振り方をしなければ、正確に6分の1にはならないだろう。
逆にイカサマをしようと思ったら、サイコロに細工をしたり、投げ方を工夫したりすればいい。
つまり、原因となる物体の性質やそこに加わる力を調整することによって結果と確率を変えることができる。しかし、普通、逆は起こらない。原因を変えずに、確率と結果を変えることはできない。「確率を変えることができるか」という問題は、「超能力は存在するか」とは別問題である。超能力なら確率を変えられる、というのは憶測の二重がさねであって簡単に受け入れることはできない。
ラディンもこの辺の事情はある程度わかっているのだろう。だから「サイコロが一瞬かたちを変える」というような「ヤバイ表現」をしなくてはならなかったのかもしれない。
Skeptic's Dictionaryの「psychokinesis (PK)」の項目に、サイコロ実験に対する若干の批判を見つけることができる。そのうち一番初歩的なものは、C.E.M. Hanselの著書「The Search for Psychic Power: Esp & Parapsychology Revisited」( Prometheus Books, August 1989)から引用されたものである。それによると、初期の研究(1934-1946年)のうち、比較のための対照群を用いたのはただ1件だけで、その実験はサイコキネシスの証拠は一切もたらさず、代わりにサイコロのバイアスがはっきりした。つまり、念じる念じないにかかわらず、サイコロは6の目が上になって止まる傾向が強い、ということがわかっただけだった。
完全に均一で偏りのないサイコロを作るのは本質的にほぼ不可能なので、どうしてもこうした批判は生じてしまう。よって、サイコロ実験は時代とともに廃れていき、代わりに乱数発生装置(RNG)を使った実験が行われるようになったのだろう。
量子論は超能力の根拠にならない。
この本もそうだが、量子力学の不確定性原理や波動関数の非局在化、可干渉性(コヒーレンス)や「エンタングルメント」などが超能力の根拠となるという主張がある。しかし、こうした主張に物理学者は納得していない。アメリカ物理学会が発行する会員誌「Physics Today」に以下の記事が掲載され、量子力学が疑似科学の権威付けに利用されていることを問題視している。
- 「Teaching physics mysteries versus pseudoscience」(物理の不思議を教えること vs 疑似科学) Fred Kuttner and Bruce Rosenblumm, Physics Today, November 2006, page 14,
一般の人に量子力学の限界を理解してもらうのは難しいが、超常現象が量子力学によって裏付けられるというような主張は、「量子ナンセンス」である。物理学の教師はそういったことがきちんとわかるように、生徒に量子力学を教えるよう心掛けないといけない、とこの記事は結論している。量子力学を超能力の根拠にすることは、マイケル・シャーマーが言うとおり「量子のたわごと」(336ページ)なのである。
ラディンも、第12章を量子力学の紹介に費やしているが、案の定、超心理学に都合のいいように、量子力学を恣意的に引用しており、説明が不正確な箇所もある。これを読んで量子力学を理解したとは思わないほうがいい。ラディンは、超能力に懐疑的な連中は、量子力学の不思議さも理解できない頭の固い旧態依然とした学者と同じだ、と言いたいようである。
古典論なら未来は正確に計算できる?
たとえば、289ページに以下のような記述がある。
因果性の伝統的理解に従うと、粒子の現状態を正確に知れば、未来の状態を正確に計算できるはずである。不確定性原理では、粒子の現状態をすべて知ることが原理的に不可能であるとするので、未来は必然的に決定できないことになる。
しかし、不確定性原理が存在しないなら、未来を「必然的に決定」できるようになるわけではない。古典論でも多体問題は解析的に解けない。つまり、物体が3つ以上相互作用し合っていると、その運動は予想できなくなる。決定論的法則に従うものからでさえもカオスが発生することが知られている。数値解析(計算機シミュレーション)の精度は有限なので、未来を正確に予測することはできない。(「バタフライ効果」も参照)
2重スリット
博士号を取得しているラディンがいわゆる「2重スリットの実験」を理解していないとは考えにくいが、どうも疑わしい記述があちこちに見受けられる。
291ページの図12-1にはスリットが2つと1つの場合を比較した絵が描かれてあり、「スリットがふたつ(上段)の場合は干渉パターンが現れるが、ひとつ(下段)場合は現れない」とのキャプションが付いており、293ページには『実験者は、片方のスリットを開けるか閉じるかを「選ぶ」ことで、光子のふるまいを変化させられる』との説明がある。
しかし、スリットがひとつしかない場合は、干渉が起こらなくても当たり前なので、粒子性と波動性といった「光子のふるまい」がとくに変化しているわけではない。2重スリット実験のミソは、スリットが2つあっても、そのどちらを光子が通過したかを観測すると、干渉縞が生じなくなるということである。
「遅延選択」実験
スリットが2つと1つの場合の対比でなんでも説明しようとするので、ジョン・ウィーラーの「遅延選択」実験(「Wheeler's delayed choice experiment」)の説明(292ページ)で混乱の極みに達している。
片方のスリットと検出装置の間に高速シャッターを設置して、光子がスリットを通り抜けた直後に、シャッターを閉じたり開けたりする。シャッターが開いている場合は、両方のスリットを同時に通過したような干渉パターンが得られるが、シャッターが閉じてしまった場合はどうだろう。両方のスリットを同時に通過した「あとで」半分がさえぎられることになりそうだが、シャッターのないほうのスリットの位置に山形の分布が観測される。まるで、スリット通過の時点ですでに、あとでスリットが閉じられるだろうことを「知っていた」ようなふるまいである。
しかし、スリットを光子が通過する前だろうが後だろうが、シャッターが閉じられていれば、光子はさえぎられるので、「シャッターのないほうのスリットの位置に山形の分布が観測」されてもまったく不思議ではない。
遅延選択の実験はシャッターを使った実験ではなく、干渉させるかさせないかを選択する実験である。まず2つの検出器をそれぞれのスリットの前に置き、光子を1個づつ検出すれば、1つの光子が2つの検出器で同時に検出されることはないので、どのスリットをその光子が抜けてきたか決定することができる(光子の粒子性の観測)。ところが、光子がスリットを抜けた直後に実験方法を変えて、光子が干渉するかどうかを確認する。すると、光子は自分自身と干渉し、光子の波動性が観測される。つまり、2つの検出器を使用した実験では、どのスリットを抜けてきたか決定できたように見えたのに、実験方法を変えた途端、どっちのスリットを抜けてきたかわからなくなったというのだ。(実際は、光子は、どっちのスリットを抜けてきたかという確率の「重ね合わせの状態」になっており、検出器と相互作用することによって、いわゆる「波動関数の収束」(デコヒーレンス)が起こり、光子は粒子として検出される)
実際の実験室系での「遅延選択実験」は以下の論文で報告されている。
- 「Experimental Realization of Wheeler's Delayed-Choice Gedanken Experiment」 Vincent Jacques, E Wu, Frédéric Grosshans, François Treussart, Philippe Grangier, Alain Aspect and Jean-François Roch, Science 16 February 2007: Vol. 315 no. 5814 pp. 966-968
この実験では、2重スリットの代わりに半透過鏡(ビームスプリッター)が使用されている。ビームスプリッターから検出系まで48メートルもの距離を空けてあるので、光子が検出系に到達するまで160ナノ秒の時間がかかる。そのあいだに、電気光学変調器(EOM)を使って超高速で実験の切り替えを行っている。
この実験が驚異的なのは、光子が『スリット通過の時点ですでに、あとでスリットが閉じられるだろうことを「知っていた」ようなふるまい』をすることではなく、どちらのスリットを通過したのかわからない「重ね合わせの状態」が160ナノ秒も持続しているということだろう。(とくに因果律が破れたわけではない) その間、光子は48メートルもの距離を移動しているが、そのあいだじゅう、光子がどこにいるか不確定な状態が持続しているのである。
さらにこの実験の驚くべき点は、宇宙空間で重力レンズを2重スリットの代わりに使うと、スリット通過後、何万光年も光子が移動したあとで、干渉を起こすか起こさないか(波動か粒子か)選択できる可能性があるということである。光子が天文学的距離を移動するあいだ、光子がどこにいたか不確定な状態が持続しているのである。
なお、ラディンは量子力学では、観測行為が「過去にさかのぼって」影響すると考えているようだ(337ページにも類似の記述あり)が、過去(すでに起こったこと)を変えることなどできるはずがない。量子力学では、2重スリットを素粒子が通り抜けると、「重ね合わせの状態」ができ、誰かが測定するまでその状態が続くというだけのことである。測定するとデコヒーレンスが起こり、確率に従ってどちらかのスリットのほうに収束するのである。(ここでデコヒーレンスとは、素粒子の波動性が失われ、広がっていた波動関数が局在化し、粒子のように振舞うことを意味する)
観察者問題
2重スリットの実験を見てもわかるように、量子系はいわゆる「観察者問題」が顕著である。ラディンをはじめとする超能力信奉者はこれを「観察者の意識が直接物質に影響を及ぼす」と解釈しがちだが、それは違う。素粒子を観察するには、その素粒子になにかをぶつけるか、その素粒子が何かにぶつかるかしないと、その位置さえわからない。しかし、素粒子のような小さなものになにかをぶつけたら、その影響は絶大で、素粒子の状態が変わるかもしれないし、デコヒーレンスも起こるだろう。
人間が目で物を観察するには光が必要であるが、サイコロのようなものに光を当ててもさほどサイコロの状態には影響しない。しかし、電子に光子を当てたとするとその効果は絶大になる可能性がある。つまり、素粒子に影響を及ぼすのは観察者の意識そのものではなく、観察に使われた光子などの「素粒子にぶつかるもの」である。
301ページでは、観察者問題をさらに推し進めた『観測行為が物理的実在をまさに創造しているという解釈』を紹介している。おそらくこれは、極端な「人間原理」のことを言っているのであろう。「多元宇宙論」においては、さまざまな宇宙(それぞれ物理法則が異なっていてもいい)が存在すると仮定される。その中には、条件が悪くて人間のような知性が誕生できない宇宙もあるかもしれない。そのような宇宙は、その存在自体が誰にも認識されない(観察者がいない)。よって、知性が誕生しない宇宙は存在意味がない(知性を創造するために宇宙は誕生した)という考えである。しかし、逆の見方をすれば、我々が知ることのできる宇宙は1つしかなく、無数にある宇宙のほとんどをまったく知らない(人類の宇宙に関する知識は極めて偏ったものでしかない)ということである。
量子力学的事象の規模
一般に量子力学的効果が現れるのは、原子や分子レベルのミクロな世界のことである。光子や電子の波動性(可干渉性、コヒーレンス)を維持するのは比較的容易で、「遅延選択」の思考実験も規模は天文学的だが、光子についての実験である。サイコロのような大きな物体では、量子力学的効果は通常まったく検出されない。もし、サイコロにどの目が出るかという確率の「重ね合わせの状態」が存在し、超能力はそれを制御しているのだと主張しているとしたら、科学者はそれはナンセンスだと考えるだろう。「シュレーディンガーの猫」を実際に見た者はいないのだ。
光子や電子よりも「大きな」物体の「重ね合わせの状態」の生成は非常に難しく、2000年初頭では原子数個〜数十個の微小なものでしかそういう状態を作り出すことに成功していない。
- 「物理:6個の原子からなる「シュレーディンガーの猫」状態の生成」(Creation of a six-atom 'Schrödinger cat' state) D. Leibfried, E. Knill, S. Seidelin, J. Britton, R. B. Blakestad, J. Chiaverini, D. B. Hume, W. M. Itano, J. D. Jost, C. Langer, R. Ozeri, R. Reichle and D. J. Wineland, Nature 438, 639-642 (1 December 2005)
本論文では、最大6個の原子キュービットからなる猫状態の生成を報告する。各キュービット状態空間はベリリウムイオンの2個の超微細基底状態で定義する。その猫状態は、すべての原子が1つの超微細状態にある場合とすべての原子が別のもう1つの超微細状態にある場合が、等確率で重ね合わされたもつれ状態に相当する。
- 「物性:分子の波動‐粒子の二重性」(Wave-particle duality of C60 molecules) Markus Arndt, Olaf Nairz, Julian Vos-Andreae, Claudia Keller, Gerbrand van der Zouw and Anton Zeilinger, Nature 401, 680-682 (14 October 1999)
今回、物質吸収回折格子による回折によりC60分子のド・ブロイ波干渉を観測したので報告する。この分子は、これまでに波動性が観測された物体のうちで最も質量が大きく、複雑である。特に興味深いのは、励起状態の内部自由度が多く、それらが環境と相互作用しうる点からみて、C60がほぼ古典的な物体であることだ。
C60分子で干渉が見れたというのは驚異的な話だが、これもたかだか炭素60個からなる分子である。(2重スリットを通り抜けた素粒子の干渉は観測できるが、生きた猫と死んだ猫のあいだの干渉は見ることができない)
多世界解釈
この本でも紹介されているエヴェレットの多世界解釈では、この世界も波動関数で記述でき、無数の可能な相対状態の重ね合わせからなるとされるが、これもコペンハーゲン解釈と同様に、量子力学のひとつの解釈にすぎない。エヴェレット自身は、観察対象と観察者を区別することなく、すべて例外なく量子力学的に取り扱うべきだと主張しているだけである。多世界解釈を選択したところで、量子力学の結論が大きく変わることはない。多世界解釈ならば、超能力のような超常現象が支持されるとは考えないほうがいい。
多世界解釈においても人間はただ一つの世界の中で生きており、重ねあわせになっているはずの相対状態(他の世界)の存在を確認することはできない。世界から世界へ移動することもできなければ、世界がいつ分岐したのかもわからない。(箱の外にいる観察者には、箱を開けるまで中の様子がわからないので、猫は生きている状態と死んでいる状態の重ねあわせになっている。しかし、箱の中の猫にとって、自分が生きている限り自分は死んでいないわけで、もう一方の世界で自分がすでに死んでいたとしても、そのことを認識することはない。箱の外の観察者も実は多数重なり合った世界の1つに住んでいるが、そのことに気づいていない)
多世界解釈が本当に正しい解釈だとしたら、現実世界と矛盾してはいけないという点に注意すべきである。
ラディンは302〜303ページにおいて、デコヒーレンスについて『わからないままに放置する解釈だ』、『宇宙全体で見ると環境がないのでデコヒーレンスは起きないはずだ』といった学者の発言を引用しているが、素粒子のデコヒーレンスは実際に観測可能なので、デコヒーレンスという現象自体を否定することはできない。わからないものを、わかるようになるまで放置するのは、極めて合理的で科学的な態度である。無理にわかったふりをしても仕方ない。宇宙全体でデコヒーレンスが起きなかったとしても、多世界解釈においては対象と観察者の区別がもはや存在しないので、その中にいる我々は世界の分岐や他の世界の存在を確認することはできない。
量子脳
量子脳仮説と言えば、ロジャー・ペンローズのものが有名であるが、この本では、スタップ―ノイマンのものが紹介されている(342ページ)。なんでも、ジョン・フォン・ノイマンの流れを汲むもののようで、ヘンリー・スタップ(Henry Stapp)が「ノイマンの解釈を精緻化した」とのこと。しかし、このスタップという人物について日本語の情報はあまりないようだ。神経繊維間接合部分の空隙シナプスで、イオンが量子的に非局在化しているとか、量子ゼノン効果(Quantum Zeno effect)によって「特定の脳状態」を保持しているなどといった、本当かどうかよくわからない話が出てくる。
すべての化学反応は、分子軌道の入れ替えによって起こる分子構造の変化であり、量子力学的な現象だと言える。脳の中のさまざまな生物学的な反応も量子力学的に起こっていると言ってもいいだろう(量子力学的な「非局在化」がどこまで拡大しているのかは疑問だが)。しかし、『ある人間の心と脳が、他人の脳の確率的な状態に(あるいは内蔵などの他の臓器や、他の物体の状態にまでも)影響を与え、特定の状態へと選択的に確定させる可能性』(346ページ)となると話は別だ。
量子力学的な「絡み合い」は、素粒子の波動関数(確率振幅)の広がりを通じて起こるが、人の脳同士がなにを媒体として繋がっているのか、なんの説明もない。さらにラディンは、「他の物体の状態にまで」とちゃっかり言っているが、「他の物体」と人間の脳はなんの関係もない。
実際に生物が量子力学的効果を利用していると考えられる事例としては、以下のようなものがあるが、どちらも超能力とは関係ない。
- 「「光合成は量子コンピューティング」:複数箇所に同時存在」 2010.2.10 WED, Wired
- 「「鳥は量子もつれで磁場を見る」:数学モデルで検証」 2011.2.3 THU, Wired
結論
ラディンは320ページで古典物理学の想定する世界観について、『ちょっとした小さな誤りではなく、根本的に誤っている』としているが、そんなことはない。
古典力学も量子力学も、人間が自然を理解するために考え出した数学的近似モデルにすぎない。(所詮人間の考えたことだ) 量子力学のほうが精度が高いのでミクロな世界にも適用できるが、古典力学だって巨視的世界をうまく近似できている。古典力学が「根本的に誤っている」などということはない。「古典」という名がついているので、古臭くて劣ったものだと勘違いする人がいるようだが、そういう考えは改めるべきだろう。
さらにラディンは、量子力学は『超心理学的存在を支持する方向とピタリと合っているのだ』としているが、これはラディン個人の恣意的な解釈に過ぎない。
石川教授によると、ラディンは量子力学を比喩的に使っているだけとのこと。(私信) つまり、量子力学で起こるようなことが、超能力でも起こるのではないか?と言っているだけで、直接量子力学が関与しているわけではないそうだ。しかし、本書を読む限り、ラディンはだいぶ本気で量子力学が超能力を裏付けてくれると思っているように感じられる。
逆の見方をすると、これだけ奇妙な量子力学を受け入れた物理学でさえ、超心理学に対してかなり懐疑的だという点は着目しておくべきだろう。
また、超能力がもし本当だとすると、それは既存の物理法則の中には組み込まれていない事象である。量子力学も既存の物理学の範疇にあるので、まったく異質の存在を説明することはできないかもしれない、ということも考慮しておくべきだろう。
ラディンは348ページの最後で以下のように述べている。
本流科学においては、神秘主義に同意するような表明をしたとたんに、その科学者は信用を失うのである。残念なことに、こうしたタブーが存在しているのだ。
このラディンの認識は正しくない。とくにタブーがあるわけではない。たいした根拠もないのにトンデモない主張をすれば、誰にも相手にされないというのは、ごく普通のことである。
「本物の超能力者はどこかに必ずいる」という幻想
この本で「再現性のある実験的証拠」とされているものも、メタ解析や統計的手法を用いないと得られない「統計的有意性」のみであり、仮に実在したとしても、超能力の効果は非常に弱いものだということがわかる。超心理学の研究の中から、本当に不思議な現象が見つかる可能性もゼロではないかもしれないが、今のところ、その兆候は見えていない。
むしろ超心理学の実験結果は、強力な超能力者はいないということを示している。ところが、「才能のあるわずかな人々は、からみあった無意識へ、思い通りに意識を向かわせることができる」と352ページに書かれてあるように、ラディンをはじめとする超心理学者の多くは「本物の超能力者はきっとどこかにいる」という儚い夢を捨てきれないでいる。
379ページでは、プロスポーツの試合を例に挙げ、以下のように超能力者も懐疑論者の前ではその能力を十分に発揮できないとしている。
スポーツの試合ではホームチームが有利であることが知られています。NFL(アメフト)の一九八一年から一九九六年の全試合では、ホームチームが五八パーセント勝っています。プロフェッショナルな試合でも誰が見ているかで違いがでるのであれば、超心理学実験で同様なことが起きてもおかしくありません。
しかし、超心理学実験で「同様なこと」は起きていない。ホームでの勝率が58%ならば、アウェイでも42%勝てるということだ。つまり、アウェイであってもプロスポーツ選手の実力が素人並みに落ちることはない。ましてやオリンピックのような膨大なプレッシャーがかかる状況においても、一流選手はその実力を発揮し、世界記録を樹立する。ところが、自称超能力者の実力はコントロールされた実験条件下では、凡人レベルまで落ちるのである。
さらに384ページでは「高跳び」を例に挙げ、一般人は2メートルも跳べないが、オリンピック選手のレベルになれば、2メートル50センチ近く跳ぶと反論している。そのへんの学生をランダムに100人連れてきて高跳びをさせても、誰ひとり2メートルを跳べないだろう。しかし、人間が2メートル跳べるという主張は誤りだとは言えない、というのだ。
しかし、これでは2メートル以上跳ぶことのできる人間がいるということの証明にもなっていない。2メートル以上跳ぶことのできる人間を連れてこなければ、その証明にはならない。
そもそも人間が飛べる高さの限界は解剖学的に、筋肉や骨格の構造から予想でき、誰だろうと10メートル跳ぶのは不可能だろう。ところが、超能力にはこうした定量的な議論がない。微弱なPKやESPを何倍したら、「超能力者」が誕生するのだろう?むしろ、「統計的な証拠」しかないということは、超能力者なんて実在しないということを示している。物理法則を捻じ曲げるような強力な効果と、統計的に有意なだけの微弱な効果を同列に扱ってはいけない。
282ページでラディンは『バーミューダー・トライアングルで雪男たちがUFOレースを楽しんでいるという主張と、実験室での管理した実験の結果とを、いっしょくたに考えてはいけない。』と述べている。そんな変な主張をした人間が本当にいたかどうかはさておき、ラディンの主張はもっともである。「統計的に有意」な実験結果だけでは、超能力者実在の証拠にはならない。両者をいっしょくたにしてはいけない。
ラディンが『超心理の能力が認められ、長期間にわたりテストされ、なおかつ比較的強く、安定した結果を残した人々が知られています。そうした人はごくまれですが、たしかに存在します』(385ページ)として、例に挙げているのがジョー・マクモニーグル(Joseph McMoneagle)である。これではちっとも説得力がない。
微弱な効果から導き出される天文学的に大きな有意性
p.367に超能力の実験結果が表としてまとめられており(原著276ページ、表14-1)、上記のサイコロ念力に対する偶然比(p値の逆数)として、2.6×10の76乗という天文学的に大きな数値が与えられている。しかし、この偶然比という数字と超能力の強さの間にはなんの相関もない。偶然比が大きいからといって、超能力の効果が大きいというわけではないのだ。サイコロ念力の効果も非常に弱いもので、実社会で実感できるようなものではないことをラディンも認め、次のように述べている。(p.214)
PKの影響力が正しいとしたら、なぜカジノは倒産しないのだろうか、また、なぜ祈りはもっと信頼できるかたちで働かないのだろうか。これらの疑問に対する真なる答えは、まだ誰にもわからない。
たとえサイコロの出る目を念力で操作できたとしても、賭博等に応用できるほど強いものではないということがわかる。石川幹人の著書「超心理学 封印された超常現象の科学」(紀伊國屋書店、2012/8/29、361ページ)によると、サイコロPK実験のd値(効果の代表的な指標)は0.01と非常に小さい(d値は0.2で小さな効果とされるそうだ)。それなのに統計的有意性が2.6×10の76乗という途方もない数字になるということは、こうした解析は無意味であるということだ。
ラディンが「偶然比」を多用するのは、大きな値が出て、さも超能力がありそうに見えるからなのだろう。また、こうした超心理学的効果はどんなに「統計的に有意」であっても物理的にその力を測ることはできないという特徴を有する。超心理学者が統計学を多用する傾向について、ロバート・パークは自著「わたしたちはなぜ科学にだまされるのか―インチキ!ブードゥー・サイエンス」(主婦の友社)で次のように述べている。
意志が無生物に影響を与えるなら、意志が発する力を測定すればすむ話だ。現代の超微量天秤は、数億分の一グラムの重量さえ測定することができる。なぜ、意志で超微量天秤のバランスを崩す実験をおこなわないのだろう?高感度かつ単純かつ定量的であるうえ、統計学的分析に疑惑をもたれずにすむというのに?
もちろん、その理由は、超微量天秤がけっして譲歩しないからだ。だからこそ、サイコキネシスの実験では、統計学的研究の人気が高い。統計には、不確実とエラーがつきものであるからだ。そしてエラーは実験に偏りを生じさせる。
そもそも2.6×10の76乗などという天文学的に巨大な数字に大した意味はない。10の50乗でも30乗でも天文学的に大きいということに変わりはなく、統計的に有意ということを示すのにこんな大きな数字を持ち出す必要はない。ラディンの統計学についての理解の程度を疑わざるおえない。
さらに、表14-1(367ページ)にさまざまな超能力実験の偶然比(一番大きいのがサイコロ念力の2.6×10の76乗、一番小さいのが「遠隔凝視実験」の100)が載せてあるが、これらをすべて掛け合わせると、1.3×10の104乗という途方もない数字になるそうだ。つまり、有意性の低い実験を多数掛け合わせれば大きな有意性を作ることが出来るということで、種々雑多な実験を無条件に足し合わせたような解析は、やってはいけないということである。
p値の誤用(p値だけで判断してはいけない)
超心理学に限らず、一般にp値の誤用や誤解釈が多すぎるので、アメリカ統計学会ASAは2016年に以下のような声明を発表することとなった。
- "The ASA's Statement on p-Values: Context, Process, and Purpose", Ronald L. Wasserstein & Nicole A. Lazar、Pages 129-133、Accepted author version posted online: 07 Mar 2016, Published online: 09 Jun 2016
ここでは、p値の使用について、以下のような原則を挙げている。
1.データが指定された統計モデルとどの程度相容れないか、p値で示すことができる。
2.研究されている仮説が真実なのか、データがランダムチャンスのみによって生じたのか、その可能性をp値で計ることはできない。
3.p値が特定の閾値を越えたかどうかだけに基づいて、科学的な結論、ビジネスまたは政策上の決定を下してはいけない。
4.適正な推論は、完全な報告と透明性を必要とする。
5.p値または統計的有意性だけでは、効果の大きさまたは結果の重要性を測ることはできない。
6.p値だけでは、モデルや仮説について、良い程度の証拠を提供しない。
これは今さらながらごく当たり前のことを言っているだけなのだが、要するに、p値だけでは、超能力があるかどうかなど判断できないし、その効果の大きさを測ることもできないということである。つまり、ラディンのこうした統計学の乱用は正当化できないのである。ASAの結論は「どんな指標であれ、それ単独だけでは科学的論法の代わりにはならない」ということである。